早朝、ストラグル女史がつけた電灯で目がさめた。荷造りをはじめた彼女は、椅子の上に自分が置いていた菓子の袋を深夜ネズミがバリバリと
ストラグル女史がやってきたのは二日前の晩だった。外から戻ると、隣のベッドに誰かのロンプラとトーマスクックの鉄道時刻表が置かれていた。帰ってきた中年の白人女性は、第一印象からしてやけにマッチョな感じで、挨拶や自己紹介の話し方に自分を強く押し出そうとする空気があった。彼女はオランダ人で、シベリア鉄道でモスクワからウランバートル、そこから北京経由でここまで来たという。
「この国では闘わなければならないわ」食いつくような目で彼女は言った。「バスに乗るとき、タクシーに乗るとき、フルーツを買うとき……」
「ぼくもそうですよ」
「でもあなたは漢字がわかるじゃない。見れば何が書いてあるかわかる。私にはさっぱりわからない」
「たしかに」
「ストレスだわ。人は英語を理解しない。列車の券を買おうとしても『
よほどストレスがたまっていたのか、彼女はこの地での格闘を延々と話しつづけた。その肩に力の入った様子に、彼女の苦労と不器用さを察したのだった。
出発の荷造りをすませたストラグル女史は、たてつけの悪い部屋の引き戸とも格闘し、置き土産にドーンと地鳴りのような音をたてて去っていった。コツをつかめばそれほどでもないのだけれど、最後まで力任せだった。
午後、年配のアメリカ人といっしょに寿司氏が戻り、小銭がなくてドクターフーに一〇〇元渡してしまったのだと肩を落としていた。ドクターフーはここら辺ではちょっと有名な漢方医らしい。寿司氏は昨晩やってきたときからどことなく興味を引く男だった。アメリカに住み長年寿司職人をしているというので、ぼくは心のなかで寿司氏と呼んだ。この旅に出る前、グリーンカードを得ようと手を尽くしたがダメだったと彼は残念そうに話した。仕方なくビザ延長のためにいったん仕事をやめて日本に帰国した。ほんとは気が進まなかったけれど。なぜならこれまで日本ではどうもうまくいかなかった、とくに人間関係が。日本に帰るたびに父親と衝突していたから、「彼」が死んでからは帰りやすくなったものの、自分は日本という国自体に何となく波長が合わないのだ。だから今後働くとしたらやはりアメリカでだろう。しかしその前にかねてからの夢だったチベット旅行に行くことにした。
寿司氏のここからのコースは、いわゆる禁止ルートだった。チベット自治区への入域には制約があるが、ルートもそのひとつだ。本来は成都や重慶などから飛行機か、ゴルムドから陸路で行かねばならない。それには旅行会社による手配と許可証の取得が必要だった。彼はそうではなく、ここの北にある
彼は、ぼくのガイドブックのコピーから必要な情報を手書きで写しはじめた。ほどなくして同じくチベットに向かう予定の手品氏が戻ってきた。彼も日本人で、大理のカフェで手品を披露してくれたときからひそかに手品氏というニックネームをつけた。紺系で統一したセンスのいい服装に身を包み、眼鏡をかけ口ひげをはやしている。彼に寿司氏を紹介し、できればチベットのガイドブックを見せてあげてくれないかと頼んだ。手品氏は二つ返事で、情報ノートのコピーまで示しながら、雲南からの二種類のルートをていねいに解説してくれた。
チベット行きの成算は、情報量の多寡を差し引いても圧倒的に手品氏の方にありそうだった。寿司氏も典型的なアジア人顔だが、クリーンな雰囲気が漂いすぎている。日本人は、服装や所持品だけではなく、無精ひげや爪の汚れ、髪型などから、中国人とは明らかに異なる雰囲気を醸し出すのだ。一般的な日本人は小指の爪だけ伸ばすことはないし、顔の
寿司氏は資料を写し、手品氏は短波ラジオでNHKのラジオジャパンを聴きはじめた。ニュースでは山一證券前社長の逮捕をトップで報じていた。
夕方、ぼくはシャワー室で裸のまま立ちつくしていた。頭上のパイプからの水流を掌にあてていたものの、暖かくならない。ちょうど年配のアメリカ人もいっしょだった。彼はニューメキシコのサンタフェ在住らしく、ぼくはひそかにサンタフェ氏と呼んでいた。ぼくがやめたと告げて服を着ようとすると、ちょっとだけ暖かくなったという。それでまたTシャツを脱いで戻ったものの、ぬるい程度でこれでは風邪をひいてしまう。ぼくがまた服を着かけると、辛抱強く湯温をうかがっていたサンタフェ氏が言った。
「あー、だんだん暖かくなってきた、かすかだけど。ちょっとずつ……」
「ほんとに?」
「水の方のノズルをまわしたら少し暖かい」
それで水の
夜になって、サンタフェ氏と寿司氏、手品氏と地元の食堂の二階でテーブルを囲んだ。ぼくたちは日本語で会話し、サンタフェ氏のために寿司氏が通訳した。寿司氏は長年アメリカに住んでいるだけに流暢で、ぼくも自分のたどたどしい英語よりも彼を頼った。度数の強い蛇酒でほろ酔い加減の寿司氏は、世界は少しずつよくなっている、と親指と人さし指のあいだを小さくあけて繰り返した。ぼくは興味をおぼえて、どうしてそう思うのかと訊ねた。
「なぜかっていうのはうまく言えないけど」寿司氏はしばらく考えてから言った。「しかし、世界はよくなっていくと思うんです、ちょっとずつ」
「そうでしょうか」ぼくは唸って首を傾げた。
寿司氏が同意を求めると、サンタフェ氏はうなずいた。寿司氏は英語でも同じ言葉を反復した。真意を質すと、科学技術によって世界は好転していくという意味らしかった。
科学技術の発展自体に異を唱えるつもりはないけれど、それが単純に世界をよくするのかぼくには疑問だった。科学は人の愚かさも増幅しうる。核兵器一発で何十万単位の人殺しも可能な時代だ。問題解決の道具とはなりえても、そのものが社会をよくするわけじゃない。科学が進歩してもそのそばから問題が湧出するのは、問題の本質が人間の側にあるからだ。地雷で脚を失った者が、テクノロジーでその機能を回復させる夢を見る。科学によって失い、科学によって取り戻す。それは世の中の進歩なのだろうか。
しかしぼくは自分の考えをはっきりと口にしなかった。彼の反応からすると、それは彼の精神のデリケートな箇所につながっているのかもしれないと思った。ところが同意も反論もせず黙っていることが無言の反駁と映ったのだろうか。感情を害した様子の寿司氏は、それ以降ぼくの言葉を訳そうとはせず、サンタフェ氏にだけ話しかけた。彼からだけは首肯してもらえるかのような、どうしても同意を求めるかのような話し方だった。それでぼくは彼らの会話にただ黙って耳を傾けていた。
翌朝、早くに目をさますと寿司氏が着替えて外に出ていくところだった。ぼくが廊下に出ると、真っ青なスパッツをはいた寿司氏はソファの上で腹筋運動の最中だ。今回、何としてもチベットに行くのが第一の目標だから、体を鍛えておかないとと彼は言った。蛇酒の杯を重ねて同じ話を輪廻させていた昨晩とは打って変わった姿に刺激され、ぼくも横で腕立て伏せをはじめた。毎日できるだけしているのだという。チベットは長年の夢だったし、体力があると高山病にもなりにくいみたいだから、と。
昨日、手品氏のガイドブックを見せてもらったときの寿司氏の行動は印象的だった。許しを得ると、彼は数ページに渡る情報を猛烈な勢いで書き写しはじめたのだ。一ページでさえ半端な量ではなく、コピーを請えば手品氏は快諾しただろうに。初対面だから遠慮したのか、それとも道義的な問題を感じたのか、あるいは思いもつかなかったのだろうか。もうひとつ印象的だったのは、昨晩、ぼくたちがサンタフェ氏の話を聞いていたときのことだ。サンタフェ氏が唐突に、自分には恐怖があるんだと告白するように言った。自分は子供時代の個人的体験を今まで抱えつづけていて、その恐怖感に強く支配されたまま逃れられない。寿司氏は相槌をうちながら、自分もそうなのだと強く同意した。父と母のことを今でも引きずっている。もう父は死んだが、自分はずっと父をよく思っていなかった。父は母にひどい仕打ちを繰り返し、苦労をかけた。父へのわだかまりはつねに消えなかった。その寿司氏の赤ら顔を見ているうち、日本では社会にうまくなじめなかったという彼がなんとなくだが世界はよくなっていると考える理由を、ぼくもなんとなく理解できるような気がしたのだ。それは科学だとか根拠うんぬんではなく、彼の世界観であり、ある種の信仰なのだと。
世界は少しずつよくなっている――シャワーの湯温のように、忍耐強く待ちつづければ世界は突如変容するのだろうか。