赤い果実の重み

 市場に行こうとして迷い込んだ路地の奥は、どこか懐かしい場所だった。桟橋を渡った一角に汚泥臭の漂う集落があり、泥地の上に民家が建ち並んでいた。家々のあいだには半端な板で歩道が渡されているものの、板の隙間は広くうっかり足を踏み外しそうな大雑把さだ。向こうには何艘かの小型船が見える。家の影は濃く、仰ぎ見ると屋根に切り取られた空は鮮やかな青色だ。光の筋が朽ちかけた家の前を横切り、目の前の空間を燦然さんぜんと輝かせていた。そのきらめきは隅々にまでひろがっていくかのようだった。こんな素朴な場所にこれほどの美があふれている。ぼくは、何かに包みこまれたようにしばらく動きをとめる。

 近くの浜辺では、大ザルの上に小魚が干され、間近に人々の暮らしぶりが垣間見えた。働く男女の姿があり、家の高床の下の日陰に腰をおろし涼んでいる男、そのそばで寝転ぶ犬、木板に釘を打ちつける男がいる。道端で小さなバインセオを口いっぱいに頬張る子供、チェを食べる女、トランプに興じる中年の女と男。家の入口に吊るされたハンモックに赤ん坊が眠り、奥のタイルに女が寝ている。

 ぼくたちはビーチでリクライニングチェアを借り、パラソルの下に寝転がって本を読み、ときおりうとうとした。飽きると自転車で市場に向かい、小さな屋台でアイスクリームを食べた。浜辺に戻ると、カニとシャコをたらふく食べ、またぶらっと出かけてゼリーを食べる。まったく食べてばかりだ。彼女は甘いものに目がなかった。チェの屋台でカップに入った氷を口に運びながら、自分は五杯でもOKで、クッキーなら一缶、チョコは五枚くらいなら一気に食べられるとうれしそうに言うので、「それは自慢かい!?」とぼくも笑った。彼女は、ふだんは体重を一定に保つよう努力していても、旅行に出ると三、四キロは太るらしい。ここでしか食べられないからと思い切り食べてしまうという。
「これ以上はお腹がパンクするっていうくらい」彼女は実感をこめて言った。「だから食後は苦しくて苦しくて。でも今回は長い旅行だからだいぶセーブしてるんです」
「セーブ? 今回が?」
「これでもかなり」
「おれの目にはとてもそんなふうには見えへんけど」
 これでもすごく我慢してるのだと言い張る彼女にぼくはまた笑った。

 あるとき、昼にコムの店から満腹で出たときのことだ。宿のオーナーから最近太ったと言われると憤慨していた彼女に自転車をこぐかと訊ねると首を横に振るので、運動不足なんじゃないのかと言うと、食後の運動は体に悪いからという。
「ということは……おれの体にも悪いっちゅうことやないか」
「いいんです。私の体がよければ」
「なんやそれ」

 ぼくは吹き出し、とめどなくこみあげる笑いのなかで、これはぜんぜん笑える話じゃないぞと思った。気にとめないようにしていたものの、彼女が平然と披露してみせる本音に日々驚きさえ感じていた。それをさりげなく指摘すると、媚びを売ってると思われるのが嫌だからわざと人に気を遣わないのだなどと不服そうに頬をふくらませるので、ぼくはまた吹き出した。

 その晩、トゥーンたちに絶品コムの店に案内してもらった。その後カフェを出てトゥーンたちが浜辺に行かないかと誘うと、ウエノさんは嫌だという素振りをみせた。嫌なら嫌でよかった。けれど、その日も彼女が彼らに少しの気遣いらしきのも見せなかったことに、ぼくの心に重いシャッターが下りていくような気がした。彼女をホテルで降ろしてから、ぼくたちはタンロンを買って浜辺の暗がりでかぶりつき、ふたりの身の上話を聞いた。トゥーンはちょくちょく自作の詩を雑誌に投稿しているらしく、ひとつをそらんじてみせた。そこの文通欄で知り合った女の子とトゥーンが文通しているのだとホーンがからかうような口調で笑った。彼女とは何もないとトゥーンが弁解しながらホーンの腹を手で押すと、ホーンは笑いながらトゥーンの手をよけ、含みのある様子で言った。
「トゥーンは女の子たちからもてもてなんだ。詩で釣りをしてるんだ」
「たまに手紙を送ってるだけだよ」
「たくさんの子にね」
「ええやん」とぼくは照れた様子のトゥーンを横目に言った。「ホーンも詩、書いて送ったら?」
「おれは書けないよぉ」
 ホーンの舌でも噛んだようなしかめっ面に、ぼくたちは笑った。文通相手に会わないのかと訊ねると、トゥーンは首を横に振った。
「シクロドライバーとつきあってくれる女の子なんていないよ」

 最初から会うつもりはないけれど、自分の仕事は伝えており、それでも手紙のやりとりはつづいているという。じゃあいずれ理解して好きになってくれる女の子が現れるよとぼくは言った。実際には、ぼくはシクロの仕事もベトナムの女の子のこともまるで理解していないというのに。ただ、仕事を理由にトゥーンが自らを閉ざさないでほしかったのだ。

 帰り際、一つ残っていたタンロンをトゥーンがぼくに手渡しながら、彼女にもってかえるよう言った。いくら好意を示しても、彼女は嬉しくも何とも感じていないんだ。そんな苦い思いを飲み込みながら、ぼくは赤紫色の果実を握った。

 翌朝、彼らと自転車で一時間ほどのきれいな砂浜に出かけ、近くの岩場で記念写真を撮って部屋に戻ると、そろそろここから出ようかとぼくは彼女に切り出した。
「いっしょに行ってくれるんですか?」
「うーん、どうやろ」
「私はひとりで行けと言われるとばかり思ってました」

 彼女がそんなふうに予想していたとは少し意外だった。ウエノさんの脚もよくなってきたしとぼくが言うと、彼女は視線を落としてうなずいた。昨日のことをぼくは思い出していた。先日彼女が知り合ったおばさんがやってきたのだ。自宅に夕飯を食べに来ないかとおばさんが誘うとウエノさんは戸惑った様子で、レセプションにやってきた旅行者の影に隠れるように立った。

「私は校長ディレクターをしています」と彼女は英語で言った。「私は教師ティーチャーです。彼女もあなたも私の生徒ストゥーデント。私は日本に来年行きます。私は日本が好きだから日本のことをよく知ってる。キョウト、ヨコハナ……。今晩、彼女とあなたを夕食に招きたい」
 彼女はウエノさんの脛の擦り傷に目をやった。
「私は美しいものが好きだから、これは好きじゃない。私の父は医者だからいっしょに行きましょう」

 彼女の目つきや化粧の仕方からは、ホテルのスタッフのいうような変人には見えない。ただ、どうしてウエノさんだけでなく初対面のぼくまで招いてくれるのか不自然にも思える。何か意図があるのか、今のぼくの感覚では捉えられない人物なのか。しかしそんなことはもう少し接してみないとわからない。そう思いながら今日は先約があるからと断ると、彼女はウエノさんに餅菓子をひとつ手渡し、また明日来ますと去っていった。そのときぼくは痛感した。見ず知らずの誰かと言葉を交わし、自ら心を開いていくことがなくなっているな、と。

 夜はホテルの日本人四人で鍋を食べに出た。彼女を放りっぱなしにするのも気がとがめ、けれどふたりきりも避けたかった。晩飯から戻ってひとりでテラスに行くと、ジェニーという女の誕生会の最中だった。オーナーの昔話とマネージャーの歌声が披露されるなか、ぼくはぎこちない笑みを浮かべてまわりの人々を見やった。その場でぼくの存在は宙ぶらりんだった。それでもそこにいつづけたのは、彼女と一対一で向き合う気をなくしていたからだ。けれど意識は彼女に向かっていた。好意的かどうかは関係なく、自分がとらわれているものは執着以外のなにものでもなかった。前に、同級生の男たちを批判する彼女に立場を決めつけないほうがいいなどと言っておきながら、自分こそ固定観念に足をとられていた。彼女へのぼくの気持ちも同じようにかたまりかけていた。