翌朝、いっしょに保山行きのミニバスに乗り込んだ。彼女はそこから
とうもろこしが軒先につるされた民家風の食堂で昼食休憩をとり、保山に着いたのは夕方だった。チェックインしたのは、先日この町で一泊したときに今度利用しようと調べておいた安ホテルだった。荷物をおろすと、ぼくたちは明日の彼女のバスの時刻を確認し、じゃがいもの丸揚げをぱくつきながら丘の上にのぼった。古民家の密集した一帯は夕闇に沈みつつあった。あっという間に暗さを増した狭い路地を下っていくと、民家の軒下にぽつぽつと裸電球がぶらさがり、駄菓子や生活雑貨を照らし出している。それは、ぼくがまだ小さかった時、テレビが白黒からカラーに変わった頃の昭和の駄菓子屋や商店の色彩を思い起こさせた。記憶のなかの光景はざらざらしていたけれど、目の前のものはまわりの闇からくっきりと浮かび上がり、まばゆかった。
丘の
ふと気がつくと、ぼくたちは狭いバスの座席に座るような距離で、腿と膝をくっつけていた。その自然さがもう他人同士の距離ではないようで、彼らの歌声に包まれるように彼女の肩をふと抱き寄せたくなった。けれどやめておくことにした。もし自然にこの空気があるのなら、彼女に意識させることで壊れてしまうかもしれない。それに、たぶんぼくたちはもうここで別れてしまうのだ。
曲目こそ今の流行りのものばかりのようだけれど、ボーカルの青年の声はやはり才能なのだろう。じっと聴いていると、テクニックではなく、その声質にときおりぞくっとして、それを悟られないようぼくは腿を彼女から離した。
そこを離れるとき、ぼくたちが小箱に小額紙幣を入れると、ボーカルの青年が笑顔で礼を述べた。中国でありがとうという言葉を耳にした二度目だ。どこから来たのかと彼が言い、日本からとぼくは答えた。ここに住んでいるのかと訊くと、いつもは広州の大学の学生なのだという。別のひとりが笑顔で曲目の書かれた紙を示してリクエストを問うた。中国語の曲名はわからなかったが、彼女が喜納昌吉の「花」をハミングすると、彼らはうなずいて演奏をはじめた。
「すごくよかった。ここに来れてよかった」
立ち寄った涼菓子の露店で彼女が言った。
「ほんまやなあ。どんな曲でも、彼が歌うとぜんぜん違って聞こえるからふしぎや」
「聴いてるときに、わたしすごく感動して……。涙が出そうだった」
「泣いたの?」
「泣かなかったけど」
ぼくが笑うと彼女も笑った。
「なんでかな」とぼくは言った。「こないだは冷たい街やとしか思わへんかったのに」
ぼくは、先日ここで感じたことを彼女に話した。ひとりで町をほっつき歩いてつまらなくなり、帰って寝ようとホテルに向かった。空腹をおぼえてこの露店で餅米のようなものを食べると、甘い味付けに胸がむかむかと気持ち悪くなった。それで、コカコーラ色をしたゼリーのような、今日と同じ食べ物で口直ししようと値段を訊ねたのだが、うまく聞き取れずにぼくが訊き返すと、中年の女はすごい剣幕で鋭い言葉を放ったのだった。値段はわからなかったがぼくはそれ以上訊き返さずに大きめの紙幣をさしだした。その女の、客へ向ける形相に驚きをおぼえながら、ぼくは道端の薄暗がりでプラスチックの小さな椅子に腰かけ、スプーンを口に運んだ。立ったまま黙々と食べては去っていく客もいる。そのうち、ひとりの男の客が言葉をかけると――おそらく冗談か、無理な注文を軽口で――、女は表情を崩し、笑い声をあげたのだった。そんな些細な出来事が、この街との不和の象徴のようにぼくの記憶に残っていた。
「わたしはここはすごく好き」と彼女は言った。「彼らのおかげかもしれないけど」
ホテルに戻ろうと歩きはじめたとき、後ろから荒い運転の車が来たので彼女の手を取って歩道にあがった。すると彼女が目を丸くしてぼくの顔を見るので、ぼくも驚いて手を離した。
「びっくりした」と彼女が言った。
「なんで?」
「わたし、今まで男の人と手をつないだことないから」
「ほんまに?」
ぼくが思わず大声を出すと、彼女は目をしばたいてこくりとうなずいた。ふたたび確認すると、彼女は困ったような照れたような顔で首肯した。そのあとの沈黙を埋めるようにぼくが「じゃあ慣れといた方がいいんとちゃう?」と半ば冗談でまた手を取ると、彼女の顔がみるみる赤く染まり、ぼくはすぐに手を引っ込めた。これまで一度も、誰かとつきあったこともキスしたこともないとは聞いていた。旅の途中、窓の閉まらない夜行バスで恐ろしく冷えこんだとき、彼女は同行の日本人の男たちと三人で寝袋をわけていっしょに寝たという。ただそれは寒かったからで、体は接していたけれど背中を向けていたから何ともなかったという彼女の感覚にぼくは苦笑した。歩きながら、これからのことを考えた。彼女と同じように
ぼくは、やはり別の場所に行くことに決めた。彼女とともに行動できたこの数日はほんとにいい時間だった。これ以上望むのは欲張りというものだ。ホテル近くに出ていた露店でぼくはバナナを買い、明日のバスで食べるようにと彼女に手渡した。
「おれ、別のところに行くことにしたわ」
「どこに?」
「まだ決めてないけど」
「明日?」
「うーん、どうしようかな。もう少しここにいて、ゆっくり行き先を考えてもいいし。明日急に思い立ってどこかに行くかもしれんし」
「景洪は? 行きたいって言ってたでしょ?」
「うん、まあ……」
「もう行かないの?」
「さあ。でもまた行きたくなったらそうするわ」
彼女はあいまいな顔で少し微笑んだ。
「別にいっしょに行きたくないってわけやないねんで。でもそのほうがいいような気がすんねん」
彼女はうなずいた。受付で鍵を受け取り、ぼくたちは薄暗い階段をのぼった。部屋に入っても彼女は黙ったままだった。
「瑞麗で会えてほんまによかったわ」とぼくはベッドに座って言った。自分の曇りのない内側に向けて発するように、床に向かって言葉を継いだ。「絵の話も聞けたし、たくさん話もできたし」
またお互いにいい旅をしていこうと言いかけたときだった。どうして、という震えるような彼女の声に顔をあげると、彼女の目尻から大粒の涙が流れ落ちていた。
「どうしてそんなこと言うの?」
「何で泣いてんねん」
「どうしてわたしといっしょに……行ってくれないの?」
「どうしてって……」
言葉につまった。殺風景な部屋で、しばらく彼女は何も言わずに下を向いて泣いていた。床に雫がぽとぽとと落ちた。どう言葉をかければいいのかわからなかった。「泣かんでもええやん」というぼくの半笑いの言葉に彼女は反応しない。ぼくは彼女の隣に腰をおろし、手を取った。沈黙のなかで流れる時間は、とても長く感じられた。そしてぼくは口を開き、明日いっしょに行くと告げたのだった。
あとになって、このときどうして泣いたのか自分でもよくわからないと彼女は振り返った。わけもわからずにただ悲しくなったのだという。ぽつりと彼女は言った。
「彼らの歌を聴いたからかもしれない」