訪問者

 人の好さそうなバイタクのおっさんの話につきあううち、そのつもりのなかった一日観光を予約するはめになった。降りしきる雨のなかをぼくたちはカッパをはおって二台のバイクの後ろにまたがり、あちこちを見てまわった。雨脚が強くなっても、まわりの観光客が記念撮影を中断する気配はなかった。雨具などそっちのけでよそ行きの服装をべっとりと濡らしながら、滝や巨岩をバックに女性はしなを作るような仰々しいポーズをきめている。そこには、戦後日本の三色刷りグラビアページにでもなりそうな前時代的光景があった。滝や寺よりも、通りがかった村の貧困の様相の方が印象的だった。低く垂れこめた空の下でコーヒー豆が栽培され、小屋で蚕たちが緑の葉を食み、作業部屋で家族が液体から繭糸を取り出していた。

 夜、部屋に戻って一息ついたところに、ノックが響いた。
「あなたの友達よ」
 いつも編み物をしつつ、そばで子供を遊ばせながらフロント番をしている女性の声だ。しかし友達に心当たりはなかった。いぶかりながらドアをあけると、目の前にウエノさんが立っていた。彼女はぼくを見てパッと表情を明るくさせた。
「来ました」

 その上気した顔を見つめながら、ここがどうしてわかったのかとぼくは頭によぎった思いをそのまま口にした。ホテルの女の人が探してくれたという。驚きと同時に困惑がひろがっていく。寒くないかと訊くと、ホーチミンとはぜんぜん違うと彼女は言った。彼女の着ている暖かそうなセーターは、ホテルの女性が貸してくれたという。ここまで歩いてきたというので脚は大丈夫なのかと訊くと、「いえ、まだ」と彼女は答え、ぼくは唸った。

「雨、降ってたでしょう?」
「降ってました」
「こっち来てからずっと雨なんですよ。天候が悪くて」
「傘、買った方がいいですね」
「うん。それと服。それだけやったらたぶん足りへんのとちゃうかな。かなり寒いから」
「買います。どこで売ってますか?」
「いちおう街の中心部は、この坂をのぼったところにあるんやわ。市場があって」
「じゃあ、これから買ってきます」
「ひとりでわかる?」
「はい」

 傘を持っていないというので、ぼくは傘を取って渡した。
「ここらへんの坂、すべりやすいから気をつけたほうがええよ」

 彼女が戸口から去ると、ぼくはナオちゃんにウエノさんの出来事のあらましを話して聞かせた。しゃべりながら、いくら突然だったとはいえ、この町に来たばかりのウエノさんをこんな夜に、しかも雨で足元のよくない道をひとりで行かせたことに気がとがめた。ぼくはナオちゃんに断ってホテルを出、暗くなった坂を走ってウエノさんを追いかけた。

 ホーチミンを発った日の朝のことが思い返された。時間になってもやってこないナオちゃんを迎えに行こうと通りに出ると、ウエノさんが路地裏からおぼつかない足取りで出てきたところだった。ぼくは思わずバスの陰に戻り、出て行けなくなってしまった。自分が彼女を裏切っているかのような感情をおぼえていた。後ろの店で水と食料を買うとちょうどナオちゃんがやって来て、ぼくはそれを手渡してバスの中に入っておいてくれるよう言った。ウエノさんは、ゲストハウスの前で誰かに出してもらった椅子に腰かけていた。別れを告げると、彼女は物言いたげな目でぼくの顔をじっと見つめた。バスに戻り席に座っても、ぼくは前を向いていた。動き出し車から、窓ごしに振り返ると、ちょうど誰か日本人の男が彼女に話しかけていた。彼女がこっちを見ていなかったことに、ぼくは少しほっとしたのだ。

 市場のあたりに彼女の姿は見当たらなかった。衣料関係の店はもう大半がシャッターを閉めている。これでは彼女もあきらめて戻ったかもしれない。ぼくは坂を下った。彼女のホテルを訪ねると、帰ってきていないという。また坂をのぼりはじめると、道の端をぎこちない足どりの彼女が歩いてきた。傘は見つからなかったと彼女は言った。晩御飯はまだだというので、近くの西洋料理レストランに入った。足をひきずる彼女に手を貸してクロスのかかったテーブルにつき、彼女に食事するよう言い、自分は珈琲を頼んだ。

「元気そうですね」と彼女が少し笑って言った。
「うん、元気ですよ。でもすごい寒いから初日は体調がおかしくなって。トレーナーとか買って、やっともとにもどってきたところかなぁ。でも、よくホテルわかりましたね」
 今日の夕方チェックインしたホテルの受付の女性が、親切にもあちこち電話をかけて訊いてくれたという。脚は、歩くと少し痛いらしかった。
「ここは寒いから、傷にあんまりよくないのと違うかな」
「ほんとに寒いです」と彼女は笑った。「こんなに寒いとは思ってなかった」

 事故当初より痛みはましになったけれど、怪我の状態が打撲だけなのか、それとも他にどこか、たとえば骨や神経に問題があるのかわからない。腰を打ったので、もしかしたら打撲だけではないかもしれない、と彼女は言った。なぜ病院で検査してもらわなかったのかと訊くと、はやく来たかったからと秘密を告白するように声を小さく区切りながら彼女は答えた。その顔を見ながら、ぼくは言葉に窮して珈琲カップを口に運んだ。

「ほんま、びっくりしたよ」とぼくは口を開いた。「マレーシアに行くんやろうと思ってたし」
「わたしも最初はそう思ってました」
「北上するかもしれへんって言ってたけど、まさかね」
「おととい再発行されたカードを銀行で受け取って、すぐにバスのチケットを買ったんです」
 同室のふたりには正直に気持ちを話し、彼女たちだけで行ってもらった。問題はなかったという。
「急にコースを替えて、怒ったりしてなかった?」
「私にたいしては怒っていなかったと思います」
「へえ。……やさしいねえ」
 茶色い液体に目を落としながら、どう言うべきか決めかねた。でも、やはりきちんと伝えておいたほうがいい。ぼくは珈琲カップをソーサーに置き、顔をあげた。
「今、部屋をシェアしてる子がいて、いっしょに行動してるんですよ。ホーチミンに留学中の子なんですけど、ここにいるあいだは約束してて。だから、ぼくはいっしょに動いてあげられへんと思う」ぼくは彼女の目を見据えて言った。「すいません」
「いえ。わたしが突然来たんだし、ひとりで動きます」
「でも、そんな状態やったら……ここでひとりでできることってたぶんないですよ。雨続きで、坂ばっかりやし、足元もよくないから」
 バイクタクシーに乗ってまわるのはどうかと訊かれ、その脚じゃ無理だとぼくは答えた。
「今日、バイタクで、カッパ着てびしょびしょになりながら滝とか寺とか観光したけどねぇ。余計悪くなると思う」

 彼女は、じゃあホテルに一日いるという。それでも食事のたびにいちいちバイク拾うわけにもいかず、急坂を歩くことになるとぼくは指摘した。服を買いに行くにも市場の石段はすべるし、ここ以外では荷物になる。彼女に、いつまでここにいるのかと訊かれ、ぼくは言葉を濁した。
「今いっしょにいる人とは、これからもずっといっしょに動くんですか?」
「どうなるかまだちょっとはっきりせえへんのやけど」
 ナオちゃんは明後日ホーチミンへ戻る予定で、それまでの約束はしているとぼくは答えた。それ以降は、ぼくはたぶんすぐニャチャンに向かうだろう。
「じゃあ、それまで待っています」
「悪いし……」
「わたしはぜんぜん構いません」
「でも、人を待たせて自分だけ観光なんて落ち着かへんから」ぼくは正直に打ち明けた。「ひとりでちゃんと動けるんやったらまだしも」
「気にしてもらわなくていいんです」
「そう言われたって、気になるもんは気になるから」

 打撲だけならまだしも、他に問題があるかもしれないのだ。わざわざ体を冷やす場所にいることはなく、暖かいニャチャンに行ったほうがいいとぼくは諭した。海も近くて気候もよく、ここみたいな急坂もない。次に会ったときにまだ望むなら、あるいはともに行動する誰かがいなければ、脚の調子が戻るまで自分がいっしょにいるからと。もちろんそう望まなければそれでいい。しかし彼女は、せっかく来たのだからしばらくいたいと駄々をこねるように言い張った。
「いっしょにニャチャンに行きたい。何もしてもらわなくていいです。ひとりで待ってますから」
 肩に重石を乗せられたような気分だった。
「いや――」ぼくは、どう表現するかためらいながら、腹を決めた。「違うねん。はっきり言って、そんなことされても重いだけやねん」

 彼女は驚いた表情を浮かべ、ぼくを見つめた。何を口にしているのかという自覚はあった。ただ、そうでもしなければ彼女は行かないだろうし、他に良案は思いつかない。それでも彼女はここにいたいと言って聞かず、ぼくが何度か同じことを説くと、やっと明朝のバスをホテルで予約すると答えた。彼女に肩を貸してホテルに入ると、従業員の若い女がぼくたちを見て明るい表情を浮かべ、開口一番に言った。
「ボーイフレンドに会えたの!?」

 部屋に帰り、何も食べずに待っていてくれたナオちゃんと遅い夕飯に出た。暗くひっそりとした坂をのぼると、おおかたの食堂は閉まっている。ぼくたちは、営業を終えかけていた店でフォーを食べ、バナナケーキを買ってホテルに帰った。そんなことを感じる必要はないとわかりながら、胸には罪悪感のようなものがあった。ベッドに腰をおろし、ぼくはナオちゃんにできるだけ率直に話をした。

 ホーチミンでウエノさんと知り合った後、彼女が盗難に遭って怪我をし、カードの再発行手続きを少し手伝った。そのときにウエノさんは多少の好意をぼくに持ってくれたのかもしれない。彼女はベトナムを北上しようとしていたので、ぼくを頼りにここに来たのだろう。自分がウエノさんにどんな感情を抱いているのかには触れなかった。それは、たとえ取り出してみろと言われても取り出しようのない、はっきりとした形にはならないものだった。