天地

 駅舎を出て、広場の階段に座った。行き交う人々の姿を眺めつつ、昨日乗車前に買ったクッキーとバナナを食べ、荷を軽くした。近くの適当なホテルで宿泊料を訊ねると一二〇元で、疲れているとはいえ、これまで泊まってきた一〇元や二〇元の安宿とくらべると抵抗があった。それで荷物を駅で預け、まず地理をつかもうと散策することにした。

 重慶は四川省の南東に位置し、人口は省都の成都を超える巨大都市だという。到着した重慶駅は長江と嘉陵江にはさまれた地にあり、周辺の地形は起伏に富んでいた。

 長江側の丘の斜面に寄り添うように、どんよりとした色合いの家々が建ち並んでいる。遠くから見ると油に浸ったような様相にひきつけられ、ぼくは目を凝らした。低地にある家々を見下ろすと、空き地には廃材が積み上げられて山となっている。そうした光景から視線を上に転じると、丘に沿って大きな家や巨大ビルが建ち、上の方ほどその外観が目立った。近づくと、巨大ビルのひとつは高級ホテルだった。エントランスに横付けされた車から派手な色のシャツを着た男が降り立ち、中に入っていく。出入りする者の身なりは、駅前にいた人々のくすんだ色のいでたちとは異なり、人民服姿は皆無だった。それにしても、ここにあるような巨大ビルを眼前にしたときの威圧感は何だろう? その谷間で古び朽ちかけた建物群との対比は、まさに「天と地の差」だった。丘の下に住む人々は、日々この丘を見上げて何を感じているのだろう? 

 脳裏に甦るものがあった。ぼくが自身の価値観に疑問を抱いて方向転換したのは、十八歳のときだった。それまでの何年ものほとんどを注ぎ込んできた受験を放擲した。勉強が嫌だったわけではなく、「こういう生き方はおかしいな」と思ったのだ。正解を模倣し、定められたレールの上を人より速く走ることがよしとされる社会の常識。そこから離れようとして実際に否定したのは、それを疑うことなくただ流れに乗っていたそれまでの自分自身だった。ところが、いざ飛び出てみてももとの世界は当然何も変わらず、ただ無力な自分を確認しただけだ。時に一九八七年の日本は、後にバブルと呼ばれる絶頂への道を得意げに駆け登っていた。消費を煽る、ある種脅迫的な広告が街にあふれ、売り手買い手という商品経済に従来の関係は置き換えられていった。若者たちのライフスタイルがカタログ化され、遵守じゅんしゅすべきマニュアルみたいに喧伝された。皆がええじゃないか踊りを乱舞しながら、買い物に精を出した。一方、ぼくはといえば、俺は自由に生きるんだと自らにうそぶいてみたところで、街を歩いて見せつけられるのは、持つ者と持たざるものの圧倒的な差だった。日常に網の目のように張り巡らされていく、金への依存度を増した社会が作り出す価値基準は、自分がどうあがいてみたところで崩れることなどないように思えた。そこから出ようとしたところで組み込まれざるを得ないのだという不自由感と、その底に自分はいるのだという無力感……。

 歩いていた道は、人影のない自動車専用道のようになった。歩行者用なのか車線の区切りなのかわからない細いスペースをええいと突き進むと、高架になった。ときおり車だけがびゅんびゅんと横を走りすぎていく。下に降りるべきか逡巡しながら進むと、中ほどで向こうから男女三人組の姿があらわれ、ぼくは胸をなでおろした。

 当時のぼくはふたたびレールの上に足をのせ、順応せざるを得なかった。ただ自分の心が弱くて脱落したのではないということを自分自身に証明せねばならなかった。がむしゃらに疾走し、その目標は果たせた。しかし、その結果見えたものはやはり同じだった。世の中全体が右肩上がりを信じて疑わない、拡大志向が当然とされる時代だった。そこでは、貪欲をいかにかきたてるかというあざとさばかりが目についた。生活の向上や不幸の解消はレトリックにすぎず、そのおおかたの意味するところは欲望の拡大であるように見えた。より高レベルの歯車を作ろうが歯車になろうが身を投じる流れは同じで、人のためにと追い求めるそれも非情さと表裏一体だ。なぜなら、「もっと」という???欠乏からスタートしているからだ。そこに着地点が見えないことに苦しみながら、否が応でも考えされられた。欲望は満たされなければ不幸の要素に変わりうるが、満たした分だけ幸福が拡大するわけではない。

 前に瀘西に向かうミニバスで、印象的な少数民族の親子を見かけた。ぼくが車内に乗り込んだ瞬間から、父親らしき男の隣で静かに座る小さな男の子の内から歓喜がこんこんと溢れ出ているのがわかった。少年は、粗雑な刷りの絵本をひざの上で手にしていた。たぶん父親と町へやってきた帰りなのだろう。バスが走り出してからも、少年は包装されていない絵本を開こうとはせず、ときおり視線を表紙に落としては瞳を輝かせた。ちょっとした仕草のひとつひとつから、少年の心情が伝わってくるようだった。藁半紙のような紙質も、背表紙のない製本も、彼の歓びとは関係ない。そして、少年の横で黙って座る父親とのあいだには静かで深い愛情が流れ、少年はしっかりとそこにつながっていた。

 幸福は、満たす欲望そのものではなく、満たし方にあるのかもしれない。それでも、この世界で人々は、さまざまな欲をとにかく満たそうとほぼすべての時間を費やしているのだ。中甸ジョンディエンのチベット寺院で見た地獄絵に、人が欲に溺れる姿が描かれていたように。

 トンネル脇から細い階段状の道を登ると、小さな露店が並んでいた。老人が番をする店で昼食替わりの米綫をすすった。道を上り切ると、小店が軒を連ねている。なかでも小規模の旅行代理店が無数にあり、それらはすべて三峡下り専門らしかった。二軒の代理店で確かめると、船名は違うがチケットの値段は変わらない。離岸時刻は多少違うものの、三峡巡りのスケジュール上、だいたい夕方から夜に出るらしかった。それがわかると途端にここで宿をさがすのが億劫になり、いっそ今晩の船に乗って寝る場所も確保してしまおうかという気になった。チケットはまだあり、出航一時間前までに乗船すればいいらしい。

 ところがそこからが問題だった。後で来るからと身ぶりで店員に伝えようとしているうち、ジミー大西似の男に別の事務所に連れていかれた。中年の男と数人の事務員らしき女の子がいていかにも会社らしい雰囲気で、英語を理解できる人がいるのだと思っていたら違っていた。荷物を駅に取りに戻ってから買うから、何時と何時の船があるのか教えてほしい。それだけのことが要領を得ず、わけのわからぬまままた歩かされ、次に連れられたのは宝くじ売り場のような乗船券販売窓口だ。なぜかいっしょについてくる男たちの数だけが増えていく。ここで買ってくれとジミーは示し、何かを窓口の女に伝えたようだった。同じことを話すのにも疲れ、出航時刻だけ確認すると、どうやら今日は一便だけで乗船リミットまで一時間しかないらしい。駅まで往復するのに間に合うか女に問うと、ジミーと言葉を交わし、わかっているのかいないのかただうなずくばかりだ。別の会社にあたるのも面倒くさくなって、なるようになるだろうと買うことにした。

 ジミーに近くのバス停まで連れられ、バスに乗り込んだまではよかった。ところが、数十メートルごとのバス停で大きな荷物を抱えた客がマイペースで乗降していく。しかも一人でも多く集客しようと係が歩行者に呼びかけてバス停以外でも乗車させ、それに合わせてのろのろとしか進まない。こっちは気がせいているのにさらにわざわざ混んだロータリーを一周したりして、時間だけがすぎていく。はじめはやきもきさせられたが、腹を据え、何も考えないことにした。

 駅に着いたときには残り三〇分。急いで荷物を受け取ると、午前中にホテルを探していたときにバイタクが群れていた場所を目指して駆けた。バックパックの肩紐が肩にくいこみ、重さが腿にこたえた。気がつくと時間に追われている、こんな状況に陥るのがいちばん嫌だったのだと思い出したが手遅れだ。運動不足ですぐ息が切れ、あえなく早歩きにスピードを落とす。一段とばしで階段を下り、地下道をぬけ、また階段を一段とばしで駆け上がるとバイタクのおっさんたちの姿があった。急ぎと見透かされてふっかけられないよう呼吸をおさえながら、目的地の言い方がわからないので、さっきバスから目にしたホテル名を告げた。別の埠頭に連れていかれたら万事休すだからだ。じっくり値段交渉する余裕はない。急いでという言い方がわからず、バックパックをかつぎなおしてドライバーの後ろにさっさとまたがった。

 背中の荷物の重みと姿勢上、重心が後ろにあって、ただでさえひっくりかえりそうなのにバイクが加速するとさらに苦しく、転げ落ちそうになりながら必死で耐えた。よく目にするカブではなくヤマハのオフロードで、路線バスとは比較にならないスピードだ。ゆっくりというのは中国語でどう言うのか考えているあいだに到着した。船着き場まではまだ遠く、どうせならそこまで行ってもらいたいが、ややこしくなるといけない。ポケットをまさぐり、金を払って速攻で駆け出した。すると運ちゃんがわざわざ追いかけてきて、ホテルをあごでしゃくってなにやら叫ぶ。ぼくはうなずきながら「ありがとうありがとう」と叫び返し、川の方を指さした。

 高台まで来ると、乗船用の細い板橋を渡る人々の姿が見えた。坂の露店でのんびりと買物中の姿もあり、ぼくは安堵の溜め息をついた。