流れ去り残らないもの

 市場の食堂に少年少女たちがやってくる。ガムを売ってまわる彼らと毎回顔を合わせながら、何も買ったことはなかった。十歳にも満たないだろう彼らは物乞いのような真似はせず、金を恵んだこともない。衣服の具合から、相当な貧困にあることが窺えた。しかし彼らはその悲哀に染まっておらず、悲しみの表情や、それさえもない感情の擦り切れた無表情にはとらわれていない。次もまた彼らは無邪気に顔をほころばせ、はにかみながらやってくる。そしてガムをすすめ、いつの間にやら去っていった。そんな彼らの表情の瑞々しさは、ぼくのなかに深く残った。

 市場を出ると、雲間から光の筋が射していた。ここに来てはじめて目にする陽光だった。「やっと陽が照ったなぁ」とぼくが言うと、「やっとだね」と彼女は笑顔を見せた。わずかのあいだの陽光だったけれど、ぼくたちはそれだけのことに気持ちを弾ませ、また飽きもせず散策をつづけた。

 夕食後の薄暗い坂道で、七輪の入った天秤棒をかつぐ女性とすれ違った。吹きぬけた寒風にあおられ、七輪から幾粒かの火の粉がふわりと舞い上がる。それらは暗く沈んだ路面に落ち、弾け流れながら赤い軌跡を描いていった。

 ホテルのベッドに寝転がりながら、ぼくはこの数日のことをぼんやりと思い返した。彼女はシャワーを浴びている。外ではときおり強い風が吹き、建て付けの悪い窓の隙間から入り込んでピンク色のカーテンを静かに揺らしていた。

 ここに来てよかった。彼女とすごせて楽しかった。そうしみじみ感じられた。ただ、湧き上がる想いを心に刻みつけようとは思わなかった。たくさんの言葉を交わし、くだらない冗談で笑いあったし、ときには真剣な話もしたが、おおかた忘れてしまった。残ったものは漠然とした心象風景だけで、あとは流れ去り、ここには残っていない。少し惜しい気もしたが、やはりそれでいいように思えた。

 翌朝、荷造りをすませて外に出た。坂をのぼりながらぼくたちは無言で歩いた。つないだ手を振りながらナオちゃんが口を開いた。
「元気でがんばってね」
 そっちこそとぼくが言い返すと、彼女は肯いた。いや、とぼくは言い直した。「勉強だけがんばって、あとは今のままでいい」
「ありがとう」
「ベトナム語だって、もし面白くなくなったらやめて他の何かを探したらええんやで。無理に自分を追い込む必要はないねんから」
「うん」
 空を見上げると、灰色の雲の間に青空がのぞいていた。
「はじめての青空やなぁ」
「あ、ほんとだ!」彼女はうれしそうに大きな声を出した。

 坂の上の屋台で、彼女はバインミーを買った。屋台の主は、風邪気味の彼女がひとりで薬屋を探した夜に一緒につきあってくれたという心優しきおばさんだ。特段おいしいわけではなかったけれど、彼女はバインミーを必ずここで買った。彼女のカメラで、ぼくはふたりが並んだ写真を撮った。屋台から離れながら、彼女がうれしそうに言った。
「おばさん、ちゃんと手をつないでくれた」
 彼女の集合場所のホテルから係の男が出てきて、彼女を手招きした。言葉を探したけれど、何も浮かばなかった。お別れの時間だった。
「じゃあ」と口にすると、ふいに胸が熱くなった。「元気で」

 ぼくは彼女の顔をきちんと見ずに踵を返し、右手をあげてその場を離れた。悲しくはなかったのに、思わず目に涙があふれそうになった。ところどころに水たまりのできた地面を跳ぶように速足で歩いた。振り返ると、そこにもう彼女の姿はなかった。ぼくは小さく息を吐いて歩調をゆるめ、バイタクを探した。坂をくだるバイクの後ろで空を見上げると、そこにはまだほんの小さな青空が残っていた。こうやって最後の日に見れたことがなによりもうれしかった。ホテルの受付で荷物を受け取り、ひんやりとした空気に身を引き締めながらバス乗り場に向かった。

 バス停前の小さな売店で、炭火で暖めてもらったクリームサンドパンをぱくついていると、ベージュ色のレトロな車がやってきた。そこにつめこまれた何人かのなかに彼女の顔があった。ホーチミンとニャチャン行きは同じ場所から出るのだ。
「また会えたね」彼女は笑って言った。「こんなにすぐに会えるとは思ってなかった」
「せっかくせいせいしてたところやのに」とぼくは返した。

 彼女のバスを見送った後、ぼくは道にたたずみ、眼前の風景を見つめた。なだらかな緑の丘陵に家屋がひろがっている。道沿いの眺めはどこか殺風景で寒々しかった。路傍に自生する低木の細い枝、寒風に揺れる草の一本一本、舗装されていない丸裸の道路、場違いのように地面に突き刺さった電柱、行ったり来たりしている三匹の黒い犬。しかし、情景の侘しさにもかかわらず、そこから奥まったところに感覚を運ぶ何かがあった。ぼくは、今湧き起こっている感覚をずっとずっと前に味わったことがあると気がつき、ふしぎな思いにとらわれた。いつ、どこでだったろう。たぶん七十年代前半、子供の頃……。

 発車時刻がずれて停留所に停まったままのバスの窓から外を眺めていると、騒がしい集団が入ってきて、三十分前にはガラガラだった車内は一つの空席もなくなった。隣には韓国人の若い男が座り、後部座席では同じグループの女たちが声高にしゃべっていた。ホーチミンでベトナム語を勉強中の留学生らしい。バス内の女性のなかで、彼女たちだけが厚化粧でびっちりと固めている。彼女たちはコンパクトを取り出してさらに上塗りをはじめ、それがすむとそばの白人がキアヌ・リーブスに似ていると黄色い声で騒いだ。ぼくは黙って窓の外を眺めていた。