やさしさと哀しみ

 ズボンに足をいれながらヒロ君が夕陽を見に行ってくると言うので、ぼくもベッドから起き上がった。体調がすぐれないぼくに無理しないようヒロ君は言ったが、今日で最後だからとぼくは答えた。

 民家の横の巨岩によじのぼると、洗濯物がロープに揺れていた。そして、広大な山並みがあった。濃い緑はしだいに色を移し、遠くの山肌は霞んで空に融けようとしている。ホテル近辺はつねに人が行き交い、日中はバイクのエンジン音やクラクションが途切れることがないけれど、ここには静寂があった。この持て余すほどの感覚が自然によるものならば、それはたぶん今まで感じたことのない恵沢だった。波が引いたように心がしんとすると、ぼくのなかにはちっぽけな思考や狭い枠にとらわれた感情はなくなり、すべてが一つとしてつながる空間だけがあるようだった。

 やがてヒロ君がガンジャに火をつけると、その空間は割かれた。なぜそんなものを吸う必要があるのか、ここにこれ以上何がほしいのか、ぼくにはよくわからない。けれど、にいる彼には、ぼくがなぜにいるのか――なぜ吸わないのか――同じく不可解なのかもしれない。トレッキング帰りの白人が通りがかり、岩の上にたたずむぼくたちを見上げて手をあげた。

 いいなぁとぽつりと口にしてから、そんな言葉で確認するまでもなかったと省みた。ヒロ君の神経が鋭敏であったなら、ぼくの疑問を心に写し取っただろう。ほんとうはひとりで気兼ねなくゆっくりしたかったのだろうなとぼくは思った。帰途、夕暮れの静かな道に民家からテレビの音が洩れ響いていた。家から出てきた中華系の男が、大きな音をたてながら痰を吐き出した。

 その夜、ぼくたちは崖下の古民家の前に立った。写真部の学生とラオスでガイドをしているフランス人の男、ヒロ君とぼく、さらにもうひとりの日本人の男の六名だった。その日本人の男とは話したことはないけれど、数日前、彼が以前ここを訪れて撮ったという写真を少数民族の女たちに手渡す光景を目にした。そのためにはるばるやってきたといっても、彼の態度には気負いも恩着せがましさもなかった。キャビネ版に丁寧に焼かれたモノクロ写真のなかの女の子やおばさんたちはみな美しく、すばらしい写真だった。彼は目の前の相手をきちんと確認しながら、写真と同じ人物にひとりひとり手渡した。彼は「会ったら渡しておく」という第三者の言葉には耳を貸さなかったが、去年亡くなった自分の姉が写っていると訴えたおばさんは例外だった。

 戸をあけて中に入った。暗闇に裸電球が灯り、狭い土間に机と長椅子があるだけの質素な空間を照らした。ゲストハウスと聞いていたけれど、民家の一部を間借りしているのだ。

 客人の訪問にモン族の少女たちははしゃいだ。ひとりがお茶を準備してくれ、中国製の質素な魔法瓶から急須に湯をそそぐとやわらかい湯気が立った。九月の初旬というのに空気はすっかり冷え込み、茶をすするとそのぬるささえ暖かい。昨日から何度も招待された「パーティー」だったが、体調が気がかりだった。しかし今晩以外に機会はなく、せっかくだからと来ることにしたのだ。少女たちは写真部の学生にポラロイド写真をせがんでいる。前に二枚手に入れた子とそうでない子がいるらしかった。

 彼女たちは千や二千のドン札をポケットから出し、どこからか現れた宿の主人にフォーを注文した。そして具のない麺の入ったどんぶりが三つほど運ばれてくると、ぼくたちにしきりに勧めてくれた。済ませてきたからと言うと、箸で口まで運んで食べさせようとする。彼女たちの朝晩の食事はいつもこんな素のフォーなのだという。そんな慎ましい暮らしのなかで、格段に裕福なぼくたちを招いてごちそうしようとしてくれる彼女たちのもてなしが胸に染みた。

「こんなふうにしてくれるのがわかってるから、高めの値段で彼女たちの物を買ってあげるんですよ」と写真部のひとりが言った。「民族衣装を作る技術のある大人の女たちはいいんですけど、彼女たちは市場で手に入る材料を組み合わせて、ちょっとしたものを作るくらいのことしかできないですから」

 断り文句とはいえ、高い高いと口にしていた自分を少し恥じた。自分たちの稼ぎで自立している彼女たちは立派だ。日本でいえば小学生からせいぜい中学生くらいの歳で遠方からやって来て、こうして集団で寝泊まりし、贅沢な生活との境界線でわずかな収入で暮らしている。ジューが暗い二階に通じる梯子を昇り降りしていた。二階が彼女たちの寝間で、体調を崩して臥せっている子がいるという。しかし、そうなってもなお彼女たちは村に帰りたがらないらしい。村の貧しさゆえか、それとも厳しい事情があるのだろうと写真部の学生が言った。

 茶を飲んでいた湯呑みに彼女たちは白濁色の濁酒ドブロクを注ぎ、押しつけるように勧めた。できるだけ控えるつもりだったけれど、どれだけ飲んでいるかしっかり見られていて、適当な断り文句は通じない。話に聞いた通り体育会系のノリで当人たちも一気にあおっている。

 ひとりが歌を唄いだした。英語で簡単な歌詞をつけ、フレーズの合間に旅行者の名前を挿む。誰々ちゃんは去っていく、私はここに残されるというような内容だった。各々が細い声を重ねたが、合唱するふうでもなく、ひそやかに歌はつづいた。泪を流しはじめたイェンは、野暮を承知でわけを訊ねるぼくに「別に」と首を振った。彼女はじゃれるようにぼくの肩を激しく叩いたり、名前を呼んで気を引こうとする。それでぼくが相手をして注意を払っていると、そそくさと席を立って隣の部屋に行ってしまう。そうかと思うとまたやってきて、歌を口ずさむ。そのうち、そばにいた彼女がいきなりぼくの髪を口にくわえて引き抜いた。ぼくは驚き、頭を押さえて彼女の顔を呆然と見つめた。

「なんでそんなことすんねん?」
 彼女は平然としてかすかな笑みさえ浮かべている。手に何本かの髪の毛があった。
「そんなことしたらあかんやろ」

 怒りはなかったけれど、あっさりとやりすごせることでもなかった。向かいの席でキューちゃんと話をしていたヒロ君に伝えると、ストレスだという。でもそれですませるにはちょっとおかしい。ぼくは、こんなことはしてはいけないと彼女の目を見て強調した。これほど誰かにたいして真剣になったのはひさしぶりだ。ただ、それは彼女がぶつけてきたから打ち返したのだった。通じたのかどうか、彼女の目に悪びれた色はなかった。

 宴は終わりそうになく、ぼくは先に宿に帰ることにした。明朝のバスは何時かとイェンが昼間から何度目かの質問を寄越した。バスを見送るというので断ると、また明日ねと彼女はいつものような口調で言った。キュウちゃんと数人の女の子につきそわれ、家の外の真っ暗な小径を道路まで出た。
「もうここまででいいよ」とぼくは言った。「さよなら。元気でね」

 月には雲がかかっていた。ふらつく足の下で砂利が鳴った。宴会の途中から、ぼくは酒を勧められても断らず、何も考えずに飲んだ。体調はいいのか悪いのかわからなかった。暗い道をひとりふらふらと歩きながら、酒に酔ったのはどれくらいぶりだろうと思った。