船と小舟

 ひっそりとしたホテルを出た。朝日が昇るのはあっという間で、夕方と違ってあっけらかんとしている。半時間ほど泳ぐと、ぼくは波打ち際に座ってしばらく沖を眺めた。

 歩道の屋台で昨日と同じように小さな椅子に座り、往来をぼんやりと眺めながらおこわをぱくついた。日陰はさわやかな空気のなかにあって、光も強すぎず世界は澄んで見える。添えてもらった小魚の煮付けがおいしくて、おこわをおかわりした。食べ終わるとおばさんが冷たい水を出してくれた。こうしてささやかな食事をのんびりと摂る。それがどれだけ幸福感のあるものなのか、旅に出てはじめて知った気がする。

 部屋に戻るといつの間にか寝てしまい、一時間ほどして目をさましてもう起きなければと思っているうち、また寝入っていた。めずらしく起き上がるのがだるかった。外はうだるような暑さで、三〇分ほどの距離に疲れ切ってトゥーンの家についた。市場で買い足すものがあるというので、また重い体で立ち上がった。十分ほどの道中にも体力の消耗は激しく、どこか体がおかしかった。

 道すがら、トゥーンが「アイ・ドン・ノウ・ホワ~イ」と歌い出した。「ぼくはわからない、さよならといったわけが」という本来の歌詞を「ぼくはわからない、さよならといったわけが」とトゥーンは替えて笑った。「ほんとは悲しいんだろう? ウエノが行ってしまって」
「悲しくないよ」とぼくは答え、真似て歌った。「ぼくはわかってる、さよならをいったわけが」

 食後、トゥーンが例の京都の女の子からの別の手紙をまた声に出して読んだ。そして前と同じように、彼女をガールフレンドにしたいならそうしたらいいからと冗談めかした。
「何を言ってんねん」
「土産を渡してほしいんだ。できたらそのときに、彼女が今、どうしているのか――ボーイフレンドがいるのか、結婚してしまったのか――を調べて。そうすればすっきりするから」
 いつかの晩に、トゥーンが自作の詩を披露して英語に意訳してくれたことがある。

  小舟が船から離れていっても
  小舟は船のことをおぼえている
  船はいつも小舟のことを考えてる

 そのときは気づかなかったけれど、今はそれが何を意味しているのかわかる。当初は土産の配達を安請け合いしたものの、その気持ちは重くなるばかりだった。自分が結婚するときに来てくれるよねとトゥーンが問い、来るよとぼくは答えた。

 彼らの昼寝につきあって、二階の大きな木製ベッドのござの上に横たわった。ベッド以外に家具のない、質素な寝室だった。下と上に一室ずつのこの家で、家族四人――今は姉が結婚し、父とふたり――で暮らしてきたのだ。さっき食後に片付けを手伝いながら、食器を洗い場に運んだ。流し台はなく、壁の低い位置に蛇口があり、金盥かなだらいに食器が浸かっていた。そこはコンクリで四方を塗り固めた狭い空間で、その一畳ほどが、台所と浴室と洗濯場を兼ねているようだった。ぼくの真横でホーンはすぐさま鼾をかきはじめた。頭上のトタン屋根が、太陽の熱でキシキシと音をたてていた。