彼女の帰国

 人づてにぼくの居所を知って訪ねてきてくれたナナさんが言葉を選びながら語ったのは、ぼくがダラットでいっしょにいたナオちゃんに関するショッキングで重たい話だった。

 ドミでぼくの隣に新しく来た女の子は偶然にもナオちゃんと同じ名前だった。彼女の横のベッドで、ジン君は眠っていたかと思うと突然起き上がってマリファナを吸いはじめ、ときおり激しく咳込んでいる。熱があるのかとナオちゃんが訊ねると、ちょっととジン君は答えた。ナオちゃんはうなずいたがその後は無反応で、傍で見ていて冷たさを感じるほどお互いの無関係さが際立っている。でも自分こそ、ジン君の具合が悪そうなことはわかっていた。昨日、熱があると聞き、青黒い顔色が気になりながら、どう接したものか距離を計りかねていた。ただマリファナを吸えるくらいならそれほど悪くはないのだろうと放っていたのだ。それでぼくは彼に解熱剤を飲ませ、洗面器に水をくんで濡れタオルをしぼった。夕方になって降りはじめた雨は夜にやんだが夜半には大雨になり、外で激しい雷鳴が響いていた。

 翌朝八時すぎ、同室の皆はまだ眠っていた。午前三時すぎまで話に花を咲かせたのだから当然だ。シャワーと洗濯をすませると、ひとりで外に出た。露店でフォーを食べ、いつものカフェの二階にあがった。そして昨日のナナさんの話を思い出し、ナオちゃんのことを思った。

 ぼくと別れてホーチミンに戻った彼女を待っていたのは、父親の訃報だった。ナナさんたちの前で、彼女は父が自殺したと泣きじゃくったのだという。

 実母の再婚相手である継父はとてもすばらしい人なのだと、ぼくは彼女から幾度となく耳にしていた。読書家で博学であり、頭がいいだけではなく人間的にもすばらしかった。自分が心から尊敬し、血のつながった母以上に近しく感じられる存在だった。母が心の病を患ってから父には相当負担がかかっただろうに、トラブルばかり起こす母の面倒を愚痴ひとつこぼさず見てくれた。ほんとは自分がもっと母の世話をしなければいけないのだろうけれど、父と同様血のつながりのない兄も、快く自分を送り出してくれた。自分は彼らの言葉に甘え、逃げ出すみたいにベトナムに来たんです……。

 ぼくとヤマちゃんの部屋に訪ねてきた彼女から、そんな話を深夜まで聞いた。彼女の下宿部屋を見せてもらったときのことをぼくは思い返した。ベッドと机だけのシンプルな部屋にはシャワーもついていたが契約時に言及しなかったため湯は使えず、朝晩は肌寒いので日中に水を浴びているのだと言っていた。CDウォークマンにつないだ小型スピーカーでスピッツの曲を聴きながら、彼女と家族の写真を見せてもらった。中学、高校、大学……同時プリントについてくる小アルバム四冊ほどに、彼女のこれまでがこじんまりとまとめられていて、ぼくは彼女の友人や大学時代の彼氏の話に相槌をうった。その写真のなかの二匹の飼い犬はどちらも皮膚がただれていて、「わたしの家を象徴するみたいな犬なんです」と彼女は小さく笑った。

 ダラットでのことや、彼女のはにかんだ表情が脳裏に浮かんだ。彼女にはまっすぐで澄んだものがあった。それはイメージの世界に貫かれたものではなく、彼女とまわりの世界との関係の清澄さだった。彼女は自身を汚れた人間なのだと評したけれど、そんなことを言うならぼくのほうがよっぽどそうだと思えた。急遽日本に帰国したという彼女は今どうしているのだろう。その彼女に何ができるのか、何をすればいいのか、ぼくにはわからなかった。