南国の香り

 わけのわからない停車場所だった。車内にひとり残ったぼくを見遣る運転手にここは保山パオシャンなのかと訊ねると、彼はうなずいて早く降りろと促した。外に出て、さっき横に停まった寝台バスと今乗ってきたバスが走り去る姿を見届けながら「まあええか」とひとりごちた。

 地面に置いたバックパックは砂埃にまみれている。朝、早目に乗車して運転手の横のスペースを確保したが、後から乗り込んできた厚化粧の若い女の真っ赤にマニキュアされた手で彼女のトランクに入れ替えられた。どけられたぼくのバッグには人民服のおっさんが椅子代わりに腰かけ、乗降客が蹴りを入れていったのだ。ぼくは汚れをはたいてかつぎ、物寂しい道を歩き出した。先に降りた乗客の姿はなく、自分だけ取り残されたような気分だった。

 宿を決めて外に出ると、町はどこか味気なく面白味に欠けていた。露店のならぶ通りには大勢の人が歩いているのに、心惹かれるものがなかった。自動身長測定器が客の身長を読み上げる機械音声が薄暗い通りに響いている。バスを降り立ったときの、この街は長くいるところではなさそうだという印象は変わらなかった。脳裏にこびりついていたのは、山を切り崩し、道路を造っている荒涼とした光景だった。路面から黄土色の砂塵がもうもうと舞い上がり、削られた山肌の崩落も珍しくない。斜面のあちこちから突き出た巨岩はいつ落下してもおかしくなく、実際道路脇には巨岩がごろごろと転がっていた。車を直撃すればぼくの命などひとたまりもないはずで、確率は低かろうがぞっとする。破壊なのか、建設なのか。夜道を歩きながら、同じ思いが頭をめぐっていた。破壊であり、かつ建設であるのかもしれない。自分が通る道を作っていたのだ。いわば自分もその行為の一部だった。道がなければどう旅をするのかという根本的な疑問の前に、ぼくにはあの荒々しさこそが人間の愚かさである気がしてならなかった。

「何にせよ自分でやってみたいのよ、同じ失敗を経験するまでね」マッチョを装ったオランダ人の女が麗江のドミで言った。ぼくたちは、人間は過去の歴史の過ちから学ばないのかという話をしていた。「自分でやってみるまで、それが何なのかわからないのね」
「彼らは今それがほしいのに、手に入れた私たちが何か言うことはできないって思う」別の女性が麗江の米綫屋で言っていた。「言っても彼らにはわからないだろうし」

 豊かさは、所有物や所得の多寡だけでは量れない。同じ道程になだれ込もうとしている彼らは、同じ課題に行きあたるだろう。環境問題もその同一線上にある、壊した者の定義した概念だ。その破壊先駆者が今の自分のように踊れと振り付ける、皮肉なダンス。そのダンスを機械的に繰り返すな。ぼくは念じるように思った。彼ら自身が切り拓き発見しうる別の道がある。何かを感じている人がここにもいるはずだった。しかしそんなことを思いながら、ぼくはこの町のどことも誰ともつながっていない気がした。今のぼくはただ思考を積み上げ、理想を思い描いているだけなのだろうか。

 暗くさびれた通りで、派手派手しいアクセサリーを身につけた女とすれ違った。けれどまるで似合っておらず、通りの雰囲気ともそぐわない。それを好きで身につけているというより、他人の羨望を掻き立てて優越感をエネルギーとするような空気を強く漂わせていた。現代社会は、そうした生き方を商業的にバックアップすることでドライブしているのだ。「くらべない」と麗江のドミでラヴ・ミュージック君が言っていたのを思い出した。「今までに他人と自分をくらべたことなんてないよ。優越感を持ったこともない」と。それならいい。

 人が生きる意味を問うのはなぜだろう。かつては、思考せずにいることは易きに流れることであるかのように、絶対的な意味を見出そうとした。ところがそれは、もし意味がなければ生きる価値はないのではという短絡的な疑念をもたらす。しかし、そもそも生きなければ意味など見つからない。逆なのだ。それでも思考は、本来一つである存在を分裂させてしまう。意味も価値もそれらを作り出す比較も、思考によってもたらされるのだ。

 夜空を仰ぐと、赤い日除けのパラソルと黒い空のあいだを炭火の煙が細波さざなみのように流れていく。炭火串焼きの屋台とともに目につくのはひどく汚れた町並みだった。どんよりとくすんだ色合いには、人々の繊細さや何かをいとおしむ気持ちが感じ取れない。愛情をもって育てられているだろう鉢植えのひとつさえ。あるいはここは社会主義の国であるはずなのに、私利より社会全体を優先するムードは朽ちかけた煉瓦塀のスローガンのなかくらいにしか見つからない。人々は日々の生活に埋没し、自分だけの内向きな生を回転させているように見えた。

 こぎれいな衣料品店の集まる通りで、両脚のない物乞いが滑車つきの板に乗って店をまわっている。歩道では物乞いが芝居がかった泣き顔と物哀れな口調で訴えかけ、その脇に座った子供もわざとらしくべそをかいている。昆明の公園で目にした夕景が重なった。そこにも、似たような口上で施しを乞う子連れの中年男がいた。傍に横たわった子供は取ってつけたような泣き声をあげ、疲れてトーンが落ちるたび、周期的に周波数の合わさるラジオのように声を絞り出していた。その間の抜けた空気に足をとめる通行人はなかった。それでも、広場のあちこちにできた人だかりのなかでは、地面のブロックに水筆やチョークで生活の窮状が綴られ、人々は同情の顔つきで箱に紙幣を入れていく。四肢の不自由な女が子供に金を集めさせていると、ケンウッドの無線を手にした公安が消せと言い渡した。ぼくはその場を離れながら、中国に入ったばかりできつく感じられた人々の態度は、人としての冷たさではなかったのだと安堵したのだった。

 しかし、今ぼくのいるこの町のどこに愛情があるのだろう。どこかにあるはずだった。人がいるかぎり、ここで生きているかぎり、親から子に生をつないでいるかぎり、それは存在するはずだった。けれどなぜかその気配が感じられない。それはただ今の自分自身にないからなのだろうか。

 翌朝、外がまだ薄暗いうちにホテルを出た。券売所で瑞麗行きのチケットを買うと、構内に眠るように停まっていたバスの車内にバックパックを置き、車庫の入口にたたずんだ。東の空がしだいに明るさを増していく。朝はどこにおいてもすがすがしく、美しい瞬間が刻々と移りすぎていく。しかし視線を落とすと、町は土埃や煤煙にまみれていた。よくこんなところで住めるものだとさえ思う。人々が至るところで痰のからんだ咳をし唾を吐くのも無理もなかった。

 崖崩れの復旧処置のたび、バスはエンジンを止めて停車した。大きな石が道端に転がり、路肩の陥落も頻繁に目にする。それらを除けば、車内に流れ入る風と、射し込む光と、平和な時があった。

 そんなあるとき、パリンという硬い音と同時に頬に何かがあたった。運転手が驚いたという顔で声を上げた。落石がサイドミラーを割ったらしく、ぼくの足元に指二本分ほどの大きさの破片が落ちている。頬をさわるとさらっとした血が指につき、何気なく後ろを向くと、おっさんがぎょっとした表情を浮かべた。運転手が何度か振り返ってぼくの顔を見た。ぼくは銀色の破片を窓の外に投げ捨て、顔はそのまま放っておいた。血が流れているのがわかったが、ふくのも面倒くさくて、たいしたことはないだろうと思うことにした。まもなく出血は止まり、乾きはじめた。

 昼をだいぶ過ぎてバスは給油のため停車した。運転手から出発が三十分後だと訊き、近くの食堂に入った。店の前に置かれたぶっかけ飯用の惣菜鍋の蓋には、道行く車やトラックがもうもうと巻き上げる砂埃が積もっている。食後、公厠の横で屎尿臭をかぎながら歯を磨いていると、運転手に大声で呼ばれた。ぼくは歯磨き粉のまじった唾を吐き出し、走りながら茶を口に含んだ。車内に駆け込むと乗客の顔ぶれはそろっている。十分ほどバスが走ったところで、さっきうがいしようと口に入れた液体を窓から吐き捨てた。

 芒市マンシーまではひどい悪路で、おおかたは専用道を作るために工事中だった。黄色い路面が削れて波打っているために乗客は座席の上を跳ね、それに慣れると市街の舗装路は氷の上を滑るような乗り心地だ。大きな町は救いようのないほど汚れていても、郊外の風景は美しく、山々や自然は大きい。

 陽が傾いて空が赤みを帯びる頃、南国風の町に入った。バスを降りると、大きな布を腰に巻いた男の姿が他所とは趣を異にしていて、ぼくはひさびさにわくわくした。

 散歩がてら遅い夕飯に出ると、屋台が連なる通りでは串焼き肉や小篭包の蒸し器から食欲をそそる匂いが漂っている。菓子や日用雑貨を煌々と照らす裸電球がまばゆく、空気は丸みを帯びていた。この町は徳宏タイ族ジンポー族自治州にあり、少数民族だけでなくミャンマー人などもいるようだ。通りを行き交う人々のスカート風の装いが、漢民族の地味な服装に慣れた目には新鮮だった。わけても男たちには、惣菜屋から立ちのぼる南国の香辛料の薫りのように独特の色気があった。

 通りのはずれのローラースケート場では、若者たちがリンクをくるくるとまわっていた。横にはディスコが併設され、若者のみならず中年の男女がにぎやかな音楽に合わせて体を動かしている。ロータリーには一見してはっとするほどの白い化粧を施した女たちがいる。聞いたところによると、女を買えることで多少知られた場所らしい。女たち目当てなのか多くの男たちがたむろしていて、そこだけ人口密度が違っていた。