おぼえのない約束

 ゲストハウスの軒下で、ぼくとナオちゃんは暗い空から降り注ぐ雨を見上げていた。ヤマちゃんが空港からガールフレンドと帰ってきたところで、いっしょにベップさんとの夕食に出かけるために彼らを待っていた。そこへ兄妹の物乞いがやってきて、ぼくたちに無言で手をさしだした。五歳くらいの男の子と、彼に手を引かれた三歳くらいの女の子。男の子は鼻汁をたらし、黒く汚れたぼろぼろの服を着ている。体もしばらく洗っていないのだろう。これまでぼくの前にあらわれた無数の子供たちと同じような身なりだった。ナオちゃんは横を向いて意思を伝え、ぼくは彼らの顔を見て、ポケットから千ドン札を取り出した。

 物乞いの子供たちには裏で操る元締めがいるのだと何度か耳にした。観光客の同情を買うよう演出され、迫真の演技をしているのだと訳知り顔に言う者もいる。しかし、だからどうだというのだろう。もしそうだとしても、その背景には彼らなりの逼迫した状況があり、まだ幼い彼らにはどうすることもできないことだ。操られていようといまいと、実の兄と妹でなかろうと、年端もいかぬ子供が雨のなかを連れ立って長時間歩いてまわる。遊びではなく生活のために。それはどんな気持ちなのだろう。翳と虚無の混じったような表情が演技なのか、疲労なのかはわからない。ただ、誰かのさもカラクリを看破したような、それでいて実はただ意識から切り捨てる正当化にすぎない言葉は、ぼくには無意味だ。金が多少あったところで逃げられない現実とぼくたちは向き合っていて、彼らはさらに、もっとたくさんのことに向き合わねばならない。

 ぼくたち四人はタクシーで待ち合わせ場所に向かい、先に来ていたベップさんとレストランに入った。照明の抑えられた室内のテーブルには緑と白のクロスが重ねられ、ダウンライトが絵画のかかった壁を照らしていた。バーカウンターに並んだグラスがにぶく光っている。キャンドルに灯がともり、アルコールと皿が運ばれてきた。ぼくには今後当分縁のないだろう豪華なベトナム料理を満喫しながら、ぼくたちは話に花を咲かせた。ベップさんと会うのもこれが最後で、彼には感謝の気持ちでいっぱいだった。これまで忌避していた、別種の旅の楽しさを味わえたのは彼のおかげだ。つましい旅でも、時にはささやかな贅沢もしてみるものだ。

 店を出てレックスホテル横の広場で記念撮影し、散歩がてら歩いて帰った。海を泳ぐ魚群のように、大量のバイクがヘッドライトをきらめかせながら道を走り流れている。夜になると昼間以上に台数が増し、二人乗りどころか三人乗りも珍しくはなかった。バイクにまたがる者の多くは若者だった。これが新しいベトナムの血流なんだといわんばかりに、その光景は混沌としたエネルギーのたぎるこの国の姿を象徴していた。

 ヤマちゃんたちカップルは飛行機でニャチャンに向かう。そこはビーチのあるリゾート地らしかった。ぼくはひとりで北上し、とりあえずダラットに向かうつもりだった。そんなぼくの予定に、ナオちゃんが何度もうらやましげな声をあげた。
「いっしょに行ってもいいですか?」
 他愛のないやりとりで笑っていた最中、ふいに彼女の口から出た言葉にぼくは笑いを止め、何を言われたのだろうと一瞬沈黙した。
「ええけど……」
 そう答えながら、自分でも意味がわかっていない。思いもかけない展開だった。