幻想と現実のはざま

 約束の時刻に日本のカード会社から連絡があり、ウエノさんは手続きの相談をはじめた。外に出て朝食を買って戻ると、まだ話し中だ。明日ダラットに発つと告げるつもりでいたけれど、電話は長くなりそうだった。

 宿に戻り、出発するヤマちゃんにバインミーを手渡した。昨晩、宿に戻ってからも話は尽きなかった。けれどひさびさの再会でふたり水入らずでゆっくりしたいだろうと、遅くならないうちに自分の新たな部屋に引き上げた。思い起こせば、カンボジアの途中からずっといっしょだった。彼がいたからこそ、当初は喧騒ばかり感じられ噛み合わなかったこの街で三週間もすごしたのだ。空港行きのバンが去ると、宿のなかの空気がすっかり変わってしまったように思えた。

 二時間たってもウエノさんは電話中で、終わるのを待って、警察署に向かう彼女を表まで送った。ここでコーディネーターをしているという日本人男性が、盗難証明書のための同行を申し出てくれたらしい。しっかりと歩けない彼女に肩を貸し、路地裏から表通りに出ると、まわりのベトナム人たちが遠慮のない視線を浴びせかけた。彼女は人からもらったという小さな財布を編み紐一本で首から吊り下げ、胸の前にぶらぶらさせている。Tシャツの中に入れたほうがいいのではと指摘すると、入れなくちゃいけないのかと彼女が返し、ぼくは彼女の顔を覗きこんだ。
「入れたほうがええと思わへん?」
「変なんですけど」

 彼女が迎えの車で去ると、ぼくはベトコムバンクへ向かった。道すがら、腹立たしくて仕方がなかった。当初、ベトナム人から嗤われていると彼女が口にしたときには否定したものの、今なお現状を直視しようとしない彼女は紛れもなく愚かだ。高いプライドも日本ではそれなりの現実と合致していたのかもしれない。けれどここではズレているのだと気づかずに、自己憐憫と捨てられないプライドのなかをさまよっている。自分から頭を下げて請わずに他人がしてくれるのを待っていることが、その態度からありありと感じられた。ぼくは見かねて言った。
「やってほしいことがあったらはっきり言ったほうがええんとちがうかな。そやないと、黙ってたら余計まわりに気をつかわせることになるから」
「そうですか? ふたりは、私を気にせずに自由に動くって言ってました」
「そりゃあそう言ってくれてるのかもしれへんけど。でも、これをしてほしいとかちゃんと言ってる?」
「人にモノを頼むのは嫌いだから」
「でもまわりが気ぃつかって、結局はやらせることになるやろ?」
「わたしは頼んでません」彼女は不満げにきっぱりと答えた。

 誰かが勝手に世話してくれる分には、彼女のプライドも傷つかないわけだ。なぜなら、自分はそうされるに値する人間だという自己イメージは保たれるから。
「あほちゃうか」ぼくは歩きながら口に出した。

 カード再発行の目途がつき、キャッシング枠がそこそこあれば、旅を継続できるだろう。それでも現在の様子を見るかぎり、彼女は帰国した方がいいのではないかと思えた。彼女と表通りに出たときの、人びとの無遠慮で好奇に満ちた視線が甦った。その向き先は大金を奪われた日本人女性であり、怪我をした彼女だったろうが、そこに自分の姿が重なった。彼女と同室のふたりからも下心があると思われているだろう。自分ではそのつもりはなかった。けれども、無自覚の幻想があったのかもしれない。それが物珍しさや好奇心からだとしても。しかししだいにそれは薄れ、心がざわつきはじめていた。わざわざ面倒事に首を突っ込んでいるのではないか、と。それは苛つきの混ざった、自己制御や防衛的な思考だった。ヤマちゃんの言葉が頭に浮かんだ。「あんなバカ女、放っておいたほうがいいですよ」

 ベニヤ板で間仕切られた狭い場所は、ふだんは宿の長男の勉強部屋らしかった。マットの上以外に空間のない圧迫感のなかで、ぼくはヤマちゃんが残してくれた釈迦頭を食べた。袋の底から、熟れた部分からもれた果汁の変質したにおいが漂ってくる。ここには洗面台がなく、実を洗うために下の洗面所におりるのもわずらわしい。そのまま半分食べて部屋にゴミ箱もないことに気づき、結局残りを下に捨てに行った。疲れがあふれてきて、横になるとすぐさま寝入ってしまった。

 目をさますと体調もよくなかったが、やらなければならないことが残っていた。まずリングチェーンと南京錠を買った。リングチェーンは財布をベルト留めにつなぐためのものだ。どうせサヨナラするのだ、どうしてそこまでする必要があるだろうと考えもしたけれど、自分のなかに直接的ではないにせよ期待らしきものがあったのかもしれないと気づいた今、それなしで何かをしてもいいんじゃないかと思えた。

 夕方、ウエノさんのホテルに出向き、いっしょに下に降りて入口脇の段に腰をおろした。
「また散髪したんですね」彼女は微笑した。
「わかる?」ぼくも笑った。「さっきしてきてん。みんなにおかしいってさんざん笑われたから」

 三日前、チョロンの露店で髪を切ってもらった。椅子一脚と塀にかかった鏡だけという簡素さと空の下というのがよかった。手さばきも鮮やかだった。ところが感覚が日本とは超時代的に違うらしい。伝えようにも伝えようがなく観念したぼくの後ろで、ヤマちゃんは遠慮のない笑い声をあげた。そんなに変かと訊くと、「いや、大丈夫ですよ」と腹を抱えている。髭剃りは断ったが、おっさんは欠けた歯を見せてにやっと笑い、おもむろに新しい替刃を取り出した。仰々しい仕草で古い刃を道に放り捨て、シェービングムースを手に取るとぼくの顎をぐいとつかむ。ぼくが流れに身を任せると、次におっさんはペンライトで耳の穴をのぞきながら器用な手つきで耳垢をとり、そのすべてをいちいち示して見せた。

 今日、ぼくが近所の小さな床屋で後ろだけ刈り上げてくれと説明すると、店員は怪訝な顔をした。一応切ったばかりなのだから無理もない。はじめると一分で終わったものの、料金は青空散髪店と変わらなかった。

 ホテルの入口は細い路地裏にあり、斜向かいの部屋では二歳になったという子供の誕生日を祝っていた。家々はみな、風が通るよう入口を開け放っているから中がよく見える。壁や天井に飾り付けられた赤や金の色紙や紙細工に、両親と祖母の子供に対する思いがあふれていた。皆に囲まれながら子供はニコニコと笑顔を振りまいている。

「再発行は明後日になるそうです」とウエノさんが言った。
 ぼくが明日ダラットに発つと告げると、私といっしょに行ってくれないのかと彼女は言った。それは、ぼくがひとり旅を再開することを知っての彼女からの告白だった。ヤマちゃんと数週間行動を共にして、ひとりに戻ることに正直億劫な気持ちがあると彼女に話したことがある。冬の朝に暖かいふとんから出るのにちょっとした思い切りが必要なように、ひとり旅にはある種の勇気が必要だった。不安や障害をひとりで乗り越えねばならない。いや、それだけでなく、いろんなものを共有できる旅の道連れがいることは想像以上に楽しかった。けれど、ひとりで旅をして傷つきやすくやわらかい生身の感覚を外に晒すことは、今の自分にとって必要なことだ。これまでの日常とは違う世界に直接触れることで生まれる不安やさまざまな思いと向き合うことこそが、自分が旅に出て、これから旅をつづける意義であるような気もした。それでも、これまでたぶん異性関係では受け身でやってきただろう彼女が自ら口にしたその一言のためにどれだけ勇を鼓したかは想像に難くなかった。ぼくが答えに窮すると、動けるようになるまで待ってくれないのかと彼女が言った。ぼくは首を横に振り、チケットも買ったと伝えた。実際はまだだった。

「こんな物騒なところはやめて、次で楽しもうねって同じ部屋のふたりは言ってくれてるんです。ふたりに申し訳ないし、でもいっしょに行きたいし、どっちにしたらいいのかわからない」

 ぼくが黙っていると、「いっしょに行ってくれないんですか」とふたたび彼女が言った。「行かれへん」とはっきりとぼくが口にした言葉に、彼女は顔をはたかれでもしたようにはっとした表情を浮かべ、顔を背けてしばらく戻さなかった。彼女たちはもともと、ベトナムの次にマレー半島をまわる予定だった。このままベトナムを北上するのなら、同室のふたりの協力なしにひとりで行動しなければならない。でも、足がよくなったとしてもひとりで旅行するのはやめといたほうがいいのではとぼくは言った。大金を盗まれ痛い目にも遭って、何も学んでないような気がするから、と。彼女の期待する言葉ではないと自覚しながら、ぼくは突き放した。
「ただ、ぼくの問題やないから意見を押しつけるつもりはないし、自分の責任で判断すればいい」

 夜、またウエノさんを訪ねると、同室のふたりは食事に出て不在だった。そのふたりが旅行代理店でチケットを仮予約してきてくれ、三人ならという条件付きでディスカウントもしてもらえたという。明日までなら取消可能だが、どうすればいいのかわからないと彼女は言った。残りの期間をマレー半島のビーチで三人で過ごすか、ひとりでベトナムを北上するのか。ホーチミンの北にはヤマちゃんたちの向かったニャチャンがある。そこのビーチなら、腰を痛めた彼女が体を休めるにはいいかもしれないと話したことがある。ただ、今となっては軽々しく決断を手伝うわけにはいかなかった。だから、答えなんかないとぼくは返した。自分が判断するしかない。もし自分だったらどうするかと訊くので、その場に立ってみないとわからないと答えた。

 重い沈黙の後、彼女は口を開いた。
「ふたりにはいろいろと迷惑もかけたし、すごくやさしくしてくれました。そんな彼女たちに何て言えばいいのかわかりません」
「言い方なんていろいろあるやろうけど……」
「正直に言った方がいいと思います」
「じゃあそうすればいい。でも言い方なんて問題やないでしょう?」

 自分で判断すればいいと言うと、彼女は悲しそうな目でぼくをじっと見つめた。そろそろ帰ると告げ、昼に買った南京錠とリングチェーンと革ひもを渡した。引き止められ、ちょっと熱っぽいのだと答えると、彼女はかばんから解熱剤を出した。あとで合流した子が医者の娘で、たくさん持ってきているのでもらうからいいという。
「それも持っていってもらったらいいです」
「人のやつでしょ? そんなんもらえないですよ」
「いいんです。自由に使ったらいいよって言ってくれてますから」
「彼女が知らんのに、勝手にもらうわけにはいかんから」
「大丈夫です」
「いらんって!」
 ぼくが声を荒げると、棚に近づきかけた彼女は目を見開いて振り返った。
「じゃあ気をつけて。今度はどろぼうに遭わんようにね」ぼくは自分の態度をごまかすように言った。「見た目は変かもしれへんけど、用心してることがまわりにわかるくらいのほうがたぶん盗難にも遭いにくいのと違うかな。お金も数カ所に分けておいたほうがいいよ」
「大丈夫です」彼女がきっぱりと言った。
「大丈夫って、ぜんぜん大丈夫やないですよ。ホンマに大丈夫って思ってるの? そうやからヒドイ目に遭ったんでしょう?」
「……」
「なんでああいう目に遭ったか、ホンマに今わかってる?」
「わかってます」
「そうやってたら、『かっこわるい』なんて言わへんでしょう?」ぼくは今朝の彼女の言動を指摘した。「ああいうことのあとで格好を気にしてるほうがかっこわるいわ」
「今度は気をつけてるから大丈夫です」
「いや、ちゃんと気をつけてる人間はそんなに軽く『大丈夫』なんて口にしないですよ」

 彼女の上滑りな言葉と態度のズレをなんとか伝えたかった。同室のカヨちゃんが外から戻り、ドアの横で耳を傾けていたが、かばうように口を開いた。
「ウチの子にあまり厳しく言わないで下さいよ。そうでなくても夢でうなされてるんですから。同じ目にあえば私たちでも放心してますよ」

 ぼくは明日ダラットに発つことを伝え、そろそろ帰ると告げて立ち上がった。ウエノさんは顔を上げて恨めしげな目を見せ、ぼくが視線をそらして去ろうとすると、いやいやをするように顔を振って喘ぎ声をもらした。
「どうぞ、下に送っていって」
 カヨちゃんがフォローするように言うと、ぼくはウエノさんに先に降りといてくれと声をかけた。彼女が足をひきずって部屋を出て行くと、口を開いた。
「彼女もショック受けてるやろけど、どこが問題やったんか誰かが言ってあげんとね。みんなにやさしくしてもらってるみたいやから」
「彼女もだいぶ反省してるみたいですよ」
「言いすぎましたかね」
「いえ」とカヨちゃんは言った。「でもよかったです。いろいろと面倒をみてもらってありがとうございました」
 ウエノさんはほんとうに旅の道連れに恵まれたのだと思いながら、部屋を出た。帰り際、戸口でウエノさんはポツリと言った。
「私、ニャチャンには行かないかもしれません」

 暑かった。少し熱があるのかもしれない。窓のない蒸した部屋のせいなのか、自分の体がおかしいのかよくわからなかった。疲れているのに寝つけず、日記でも書こうとノートを開いたものの、ただ思考が回転するばかりで、ペン先は止まったままだった。ぼうっとした頭に、ウエノさんとナオちゃんに関する脈絡のない考えが浮かんでは流れていった。

 うつぶせになってペンを握ったまま寝入っていたのか、ふと気がつくと時刻は〇時をまわっていた。もうそろそろ眠ったほうがいい。けれど今でなければすぐに忘却してしまうだろう。そう思いながら、ぼくは電灯をつけたまま眠りに落ちた。