異世界を覗く人々

 夕食を注文したところに、ハノイのドミで出会った大学生が入ってきた。同じテーブルに誘って食事しながら、今日彼から断片的に耳にした話をあらためて聞いた。一昨日の晩、彼が誘われてモン族の女の子たちが泊まるゲストハウスに遊びに行ったときの話だ。ゲストハウスといっても質素な民家で、宿泊費は一泊千ドン(一〇円ほど)らしかった。そこで彼女たちは客に酒や食べ物をおごり、体育会系のノリで酒を飲ませたが、歌を口ずさみながら突然涙を流しはじめたのだという。驚いた彼が理由を尋ねても、疲れているからなどというだけだった。その場の異様な空気に、自分が踏み込んではならないところにいるような気がしたと彼は語った。

 ぼくが考えたのは、彼女らが背負った歪みについてだ。高度化されていく物質社会と従来の少数民族の共同体の接点で、大きなストレスを抱えているのではないか。もしそうなら、その責の大部分はわれわれ旅行者側にある気がしてならなかった。なにせ彼女たちの多数はまだ十代前半で、なかには十歳に満たない者もいる。昼間カットカット村に行ったときのことが思い出された。

 ひどくぬかるんだ道を下の川まで降り、村を探した。けれどなかなかそれらしい場所にたどりつかない。仕方なく引き返し、泥土がぐちゃぐちゃに攪拌された坂をまたのぼりはじめた。民家の横で木に登っていた男の子たちにナナさんがカメラを向けると、彼らはそっぽを向いて「ノー!ノー!」と強く拒絶し、「カネ、カネ!」と口々に叫んだ。写真部にいるという大学生がちょうどおりてきて、この一帯がカットカット村だと教えてくれた。
「カネにまみれたカットカット村」と学生が苦笑すると、「まだかわいいもんだよ」とナナさんが答えた。「おれらは泥まみれ、奴らはカネまみれ」とぼくは笑い、しかし彼らをカネまみれと言うならぼくらだって同じようなものだと思った。

 人の価値観はともすれば力の強い方に引き寄せられがちだ。子供ならなおさらだろう。旅行者の多いこの地で、カットカット村の子供のようにふるまいが変化してもおかしくはない。それでも彼女たちはそうなってはいない。カネ、カネと叫ぶことも旅行者からぼったくろうともせず、相手の国の言葉をおぼえ、仲良くなり、ささやかな土産物を買ってもらう。けれどせっかく関係を深めた旅行者たちはじきに去っていく。その短い期間に旅行者たちに与えられたものと、彼女たちが得た紙幣はどちらが重いのか。そんなことを思わないではいられない。

 しかし皆の反応は冷めたものだった。どうってことはないだろう、村社会なのだからとりたてて問題視するようなものじゃないといった調子で、大学生の彼のシリアスな受け止め方とは大きな開きがあった。皆の前で詳しい話をうながしたぼくは彼に申し訳なく、口をひらいた。

「やっぱり彼女たちは旅行者と接してて、しんどいことも多いと思うんですよ。せっかく仲良くなってもみんなすぐに去ってしまうし、どんどんやってきてはまた別れて、やっぱりそれはすごくきついんやないですかね」

 自分の言葉に説得力がなく何も動かしていないことが、テーブルを覆う薄ら寒い沈黙からひしひしと感じられた。皆の思いが手に取るようにわかった。旅行者と旅行者に物を売る側という、どの地にもある構図と何が違うのか……。

「彼女たちは見送るばかりで、ずっとここから出られへんで、一方では古いしがらみがあって、一方ではドライな考えに接して……」

 もともと自分の思い込みにすぎないのかもしれないものを共有しようとして、根の張らない思いつきの言葉が重なっていくだけのようだ。そこには、ひろがっていく崖のあいだに両足をかけたまま股が裂かれていくような、間の抜けた響きしかなかった。

 異世界を覗く人々の姿が脳裏に浮かんだ。他人の家のテレビや外国人向けレストランを窓ごしに覗く人々のことだ。今も窓の外には、旅行客を待ち構える少数民族の女性たちの姿があった。彼女らは表で待ちながら、出てくる外国人に商品を買ってもらう機会を窺い、贅沢な食事やビールを飲み食いする客を見守っている。なぜ彼女らは外から来た者のルールに一方的に従わなければならないのか? なぜ彼女らは他人の価値観に引きずられ、弱い立場でなければならないのか? そしてこうやって考えているぼくは、ただ思考のなかに救いを求めているだけなのだろうか?