ペイ・フォー・ミー

 木のテーブルひとつの、一畳ほどの穴倉みたいな小さな店には、モン族の先客がいた。その三人の男たちは鮮やかな藍染めの民族衣装を身につけ、髪形も独特だ。彼らは長椅子を詰めてスペースをあけ、酒をすすめてくれた。地酒なのか、味は日本酒と似ているが白濁している。五十歳、四十八歳、二十五歳というが、そんなに離れているようには見えない。若い男も老けて見え、歳をとった男はつかみどころがなく不可測だ。これまた年齢不詳の店の男はかまどに木片をくべ、その上の鍋の胴は煤で真っ黒だ。料理は揚げ豆腐のスープとごはんというシンプルな組み合わせだった。竹箸は使いまわされて黒ずみ、たぶんおわんもきれいに洗われてはいないだろう。それでも、旅行者しか入らないレストランよりもこういう場所の方がぼくには好みだった。

 店を出て日なたにたたずんでいると、民族服を着たモン族の女の子がふたりやってきた。

「マサちゃん、オハヨウ」キューちゃんが日本語で言った。
「おはよう」
「ゴハンタベタ?」
「うん、食べた」

 彼女たちは片言の日本語が話せ、英語も流暢だ。耳がよく記憶力が抜群で、ぼくたちの名前も出会った日におぼえてしまった。小柄で、日本人でいえば小学校低学年くらいの身長だけれど、年齢はわからない。キューちゃんは目元の愛らしい穏やかな表情をしていて控えめな性格だ。もうひとりのジューちゃんはかわいらしい顔立ちだがおてんばで勝気だった。「わたしからは買ってくれない」と言い立て、ぼくが苦笑して目を合わせると睨み返してくる。じゃあ商品を見せてとぼくが手を出すと、同じ文句を反復した。それで買うならふたりから買うからと口にしてしまったものの、ほんとうは押しの強い子から買うのは気が進まない。しかも彼女が取り出した口琴は性格が映し出されたような品で、飾りのビーズもボロボロだ。それでもそれぞれから買った。別れ際、キューちゃんはぼくの左手首にミサンガを糸で縫い合わせてくれた。

 部屋に戻り、外で買った民族服調のズボンを洗ってテラスに干し、ずっしりと重い掛けぶとんもついでに天日にさらした。一仕事終え、快晴の空の下で通りをぼんやりと見下ろしていると、少数民族の女の子たちが通りかかっては上を向いて笑顔で挨拶していく。ホテルの従業員が道でバドミントンをしていた。そこに昨日ぼくの手首にはじめてミサンガを巻いてくれたモン族の女の子がやってきて、ぼくを見上げて言った。

「わたしに払ってくれる?」
「うん、また今度」

 そう答えるとミサンガっ子はうなずいて歩いていった。他の子と違い、なぜか彼女は「買う」ではなく「払う」という単語を使う。はじめて彼女が声をかけてきていきなりぼくの左手首にミサンガを巻きだしたときは、少し警戒した。こういうのは好きじゃないからと断ったが彼女はいいからという態度でさっさとつけてしまった。「なんか買わそうとしても買わへんでえ」とぼくが日本語で言って笑うと、彼女は「またね」と英語で答えてあっさり離れていき、拍子抜けしてしまった。今朝モン族の少女やおばさんたちに取り囲まれたとき、そのなかに彼女の姿があった。皆、手作りの民族衣装やアクセサリーを取り出してすすめてきたが、ぼくはハノイのドミで見た小さな口琴がほしくて、どうせなら彼女から買ってあげたかったものの、気に入る色柄がなかった。

 夕方、戻ってきたヒロ君が「あったけど金を要求されたよ」とぼくに報告した。一昨日に彼が屋台に置き忘れた、免許証とクレジットカードの入った袋のことだ。昨日の朝にいっしょに取りに行くと、屋台のおばはんに言葉が今ひとつ通じなかったものの、とにかく返してもらえそうだとわかった。胸をなでおろしたヒロ君が後でひとり訪ねると、娘が持っているので用意しておくと言われたのだという。それが今日は別の人物が出てきて、金と交換してやると告げられたらしかった。
「最初から金くれって言うんだ。最低だよ。あいつら中華系だわ。めちゃめちゃこすいよ」

 結局、ヒロ君は金で――額は交渉で――取り戻した。善意の微塵も感じられない相手とのやりとりに消耗して大きなため息をつくヒロ君に、ぼくはバドミントンの相手を頼んだ。このあたりで流行中らしく、ときおり宿の従業員の男女が声を張り上げて打ち合っている。どちらもたぶん中華系だろうけれど、女の子はとても愛想がよく、兄ちゃんも快く道具を貸してくれた。

 ぼくたちが表で打ち合いをはじめると、ミサンガっ子がやってきた。うるさく声をかけてくるので、ホテルの壁際に腰をおろした。彼女が取り出した口琴は飾りが粗雑すぎるけれど、別のはないらしい。しかし、仕方がないという思いが伝わったのか、彼女は代金を受け取ろうとしなかった。

「昨日はあとであとでって言って、今日もあとであとでって……」
「だから今きみから買いたいんやって。買ってほしくないならいいけど」
 ぼくが渡そうとした一ドルを彼女は地面に払い落とし、駄々をこねるように文句を言った。
「買うって言ってるやないか。友達への土産やから、気に入ったデザインのがほしかったんや」

 彼女がヘソを曲げてしまったところへジューも闖入ちんにゅうしてきて、わたしのは買ってくれないなどといちゃもんをつける。今朝買ったじゃないかというと、あれは友達のでわたしのじゃないなどという。「あなたはクレイジー」と彼女が叫び、ぼくはやけくそ気味に「そうや、おれはクレイジー」と言い返す。するとジューの横でキューちゃんが「マサちゃん、カワイイネ」と日本語でフォローしてくれ、近くでやりとりを見ていた日本人の女の子が「男の子にはカッコイイって言うのよ」と教えた。するとミサンガっ子がさらに気分を害した様子で繰り返した。
「あとであとでばっかり言って」
「いや、だから今買うっちゅうてんねん。今ちょうだいや」
「いや!」

 そこへ向かいのホテルの中国人が対戦を申し込んできて、「おれ、バドミントンするでぇ」とぼくは一ドル札をポケットに入れた。日が暮れかけると一区切りつけ、座っていたミサンガっ子に「シャワーを浴びるから部屋に上がるわ」と声をかけた。彼女はヘソを曲げたまま取り合ってくれず、仕方なく一ドルと口琴を彼女のかごの上に置いてホテルに入った。

 ここではたくさんの少数民族の少女たちが土産物を売り歩いている。そのなかには、押しが強くなく、外国人のそばで声もかけられずにおとなしくしている女の子がいた。どうせなら、シャイだけど優しい目をしたその子たちから買ってあげたかった。他人と自分をくらべて腹を立てている子よりもいい。しかしそんなことを考えているうちにふと思い到る。その比較ばかりをしているのがぼくらの社会で、ぼく自身ではないか……。

 翌朝、ミサンガっ子がばつの悪そうな笑みを浮かべてやってきて、屋台で朝飯中のぼくに一ドルをさしだした。そこにあらわれていた彼女の素直さに、ぼくは彼女を試すようなことをしてしまったことを少し恥じた。長椅子を空けると、彼女は店のおばちゃんに千ドンか二千ドン紙幣を渡して隣に腰をおろした。出てきたフォーを彼女はレンゲだけで食べはじめた。箸を取ろうかと言うと彼女はいらないと答え、さっと食べて三分の一ほど残して席を立った。そしてまた後でねと言って、向こうから歩いてきた男のところに行ってしまった。

 数時間後、市場の前の日だまりで口琴用のビーズに糸を通す彼女の指先をぼくは眺めていた。「売り物やのにそれはあかんやろ」と思わず口出ししそうになるくらい雑だ。そういえば名前を知らなかったと訊ねると、イェンだという。その日本の通貨に似た名に感慨をおぼえていると、彼女がまたごちゃごちゃと言い出した。それでぼくは日本語で言い返した。
「買うって言ってるやん。でもこれから出かけるねん。だから帰ってきてからや」

 夕方、ぼくのいたカフェの窓からイェンが顔をのぞかせた。表に出て横に座ると、彼女は何の装飾もない口琴をとり出した。「これちゃうやろ」と顔を覗きこむと、彼女はしたり顔でにやりとした。別のものを出した彼女にぼくが一ドルか一二〇〇〇ドンかどっちだと訊くと、二ドルという。

「ちゃうって」ぼくは笑った。「なんで倍やねん!」
「あとであとであとであとであとでって。からかったでしょ」
「昨日買うって言ったやん。キノウ、おれ、君から買うって言ったやろ? イェンは一ドルって言ったやん。でもイェンが態度を変えたんや」

 口琴の作り自体は単純で、市場で手に入れた材料にシンプルな飾りを加えるだけだ。しかしその加工でさえ性格や手先の器用さで差ができ、イェンのものは出来がよいとはいえなかった。そんなぼくのためらいを彼女は敏感に感じ取って試していたのだろう。

 でもしだいにわかってきたのは、この小さな町で店を構えず物を売ることのたいへんさだった。彼女たちは通りを行き来し、旅行者に声をかけ、関係性を深めていく。同じ旅行者とずっといっしょの光景も珍しくなく、それは物の売買にとどまらない、稀有な体験の提供といってもよかった。少女たちは商品の売り手という立場を越え、土地の案内者となり、旅行者がもとめる地元民との深い交わりを供与する者となる。甘えさせ守ってやりたい妹となり、精神的つながりや癒しを感じる存在となりさえする。そのためには、旅行者をひきつける個性とコミュニケーションの巧さが必要だった。しかしながらイェンはそうした面でも器用な方ではなかった。ぼくにしても、最初にミサンガを巻いてくれた彼女の名を知ることもなく、何か買おうと思い到ったのは昨日のことだ。

「あとであとでばっかり」とイェンが言った。「わたしをからかってからかって、五日間」
「なんで五日やねん」ぼくも負けじと返した。「おれをからかってからかって、昨日から」
 ぼくたちはしばらく言い合い、やがて歩み寄った。