去来 ニャチャン

 ニャチャンのホテルでベッドに寝転がりながら、腹立たしく、いくぶんやっかいな気分に包まれていた。夕食から帰ってきて、彼女はシャワーを浴びている。彼女への期待と呼べるものはもうなく、なぜこんなことに首を突っ込んでしまったのかと煩わしかった。ただ、こうなったことにはぼくにも責任があるのではないか……。

 ダラットからのバスは、夕方、バス会社の提携ホテルの玄関前に停まった。しかし宿泊者リストにウエノさんの名前はなく、ぼく宛のメッセージもなかった。ないのも当然だろう。

 割安なドミはすでに埋まっていたため、別の安宿を見つけようとぼくは外に出て歩きはじめた。そこで彼女の乗った自転車とすれ違ったのだ。ばつの悪い対面だった。宿泊先を訊くと、彼女は目の前のホテルを指した。オーナーにホーチミンでの出来事を話すと同情してツインの部屋を半額より安い料金にしてくれたのだという。それはたしかに格安だった。どんな部屋かと訊ねると、「見ますか?」と彼女は足をひきずり中に歩いていった。

 一階の受付に近い部屋だった。並んだベッドの奥を彼女は使っていた。洋式トイレのついたシャワー室があり、ホットシャワーが使えるという。ぼくはバックパックを背負ったまま、考えを巡らせた。この状況ですぐさよならというわけにもいかず、かといってここに泊まるのもどうだろう。互いに無言のまま、廊下に出た。受付で訊ねると、ドミはいっぱいだという。結局、妙案の浮かばないまま、彼女の部屋をシェアさせてもらうことになった。特別料金はぼくには適用されなかった。

 部屋で荷物をおろすと、重い空気が満ちた。バスの着くホテルにぼく宛のメモを残すかどうか、彼女は迷ったらしかった。
「ここに向かうあいだ、腹が立ってきたから」
「そりゃそうやろうなぁ」

 ぼくはぼくで、言葉を交わすうちにざらついた気分に覆われていた。結局、彼女はメモを残さなかったのだ。なのになぜ同じホテルに来てしまったのだろう……。

 彼女は男性従業員やマネージャーからあれこれと世話を焼かれていた。部屋代のディスカウントのみならず、レンタル用の自転車も無料で貸してもらい、飲み物や食べ物を頻繁に奢られている。その姿はまたもや用心がなさすぎるふうで危なげだった。いかにも軽々しく、いい気になっているようにさえ見える。ぼくは、ホーチミンでバイタクやシクロの男たちからきれいだなどと誉めそやされながらアオザイ姿でシクロに乗る彼女の満足げな顔を思い起こした。不愉快にさせることは承知でその隙を指摘すると、彼女は不可解な様子で反発するように言った。
「大丈夫です。今回の件にしてもショックはそんなに受けてません」
「いや、ショックの問題じゃなくて。純粋な善意もあるやろけど、下心のあるやつもいるやろうし、いろんな人間がおるから」
「そうですか?」ムキになって彼女は言い返した。「今まで私が旅先で会った人はいい人ばかりでした」
「ほんと?」
「いい人しかいません」

 ぼくが口をつぐむと、気まずい沈黙に覆われた。白けた空気を抱えたまま、ぼくたちは夕食に出た。道端に出された低いテーブルをはさみ、モツ鍋をつついた。ポツリポツリと思いついたように断片的な言葉を交わし、あとは黙って箸を口に運ぶ。まわりではベトナム人が同じように腰かけて鍋を食べている。すると彼女が口を開き、どうして酒を飲まないのかと訊いた。
「別に」ぼくは短く答えた。「やめとこかなと思って」
「どうして?」
「油断して酒飲むときに限って失敗してるから」
 嘘でも本意でもない、わかりやすかろうと選んだ言葉に彼女はビールくらい飲んでもいいじゃないかと突っかかった。彼女は両親が晩酌を欠かさないことを引き合いに出し、ぼくへの批判の棘を含ませた。
「ええやん」とぼくは言った。「おれは必要ないから」

 納得のいかない顔で黙り込んだ目の前の彼女に自分の心境を説明しても、とうてい理解されないだろう。今はアルコールもおいしく感じられず、それはホーチミンあたりから顕著だった。それならば酒なしで自身とじっくり向き合ってみるのもいいだろうと思っていた。

「正直言って」ぼくは口を開いた。「ダラットでああいうきついことを言ったあとでここで再会して、何を言ったらええんか言葉に困るな」

 苦い思考の輪のなかで、ぼくはベッドから起き上がってバスルームのドアごしにウエノさんに声をかけ、ひとりで散歩に出た。

 近くの浜辺には若者たちが集まり、思い思いの時をすごしていた。黒い闇のなかに波音が響いている。いい人にしか出会っていない、か。彼女にとって、かばんを強奪した者は何だったのだろう。自分がバンコクで二万円ほどを失ったときのことを思い返した。あのときのぼくは、イメージを通して自分や人と接していた。その現実とのズレが、状況にふさわしい行動を歪ませたのだ。大切なことは、イメージではなく直接向き合うことだ。けれど彼女自身に自覚がなければ、ぼくがどれだけ言葉を重ねようと同じことだ。どうなろうと好きにすればいい。そう感じながら、そして他人に何かを強制したくないと考えながらも、自分がいらぬおせっかいを焼こうとしているのは明らかだった。早く彼女から離れたほうがいい……。暗闇の先に、打ち寄せては崩れる白い波頭がほの見えた。その波のように、同じ思いが繰り返し去来してぼくの心にノックしつづけていた。