青白い歯茎

「何もないんじゃないの」
 ここで旅行者はどんなことをしているのかと訊ねると、彼はそう答えた。そこは、数時間前に廊下で顔を合わせて少し言葉を交わした、長髪の日本人の部屋だった。半開きのドアをノックして入ると、彼は上半身裸でベッドに寝転がっていた。文庫本を読んでいたらしい。煙草とは異質のにおいと煙が部屋に充満していた。
「何もない……ですか?」
「みんなそうなんじゃないの」
「そうなんですか」
「できるのはハッパか女だけだし」

 彼は眼鏡を取り、にやっと唇をゆがめた。薄暗い蛍光灯の下で、歯茎が異様に青白い。
「吸う?」
 自分がくゆらせていたものを差しだした彼にぼくは手を振った。

「昼間はヒマだね。女とやるのも夜だけだからさ」
 彼はたるんだ腹の前で女の腰を抱く手つきを作り、またゆがんだ笑みを浮かべた。その姿に、タイで遭遇した状景が重なった。バンコクの安宿で偶然誘われて加わった宴会でのことだ。車座のなかにいた日本人の男が、皆の眼前で従業員の女相手に突然ディープキスをはじめたのだ。女はたぶん男より歳嵩としかさで、生活に倦み疲れた気配が表情に滲み出ていた。そこで働く女たちは皆地方出身らしく、ほとんどがまだ顔にあどけなさを残すなかで、彼女だけはもう若くなかった。周囲の戸惑いをよそに、彼らは人目も憚らず舌を絡ませていた。男の方はそれまで見かけたことはなかったが、酔いを差し引いても尋常ならぬものが浮き出ていた。相手がどうであれやれるだけやってしまえという欲望の塊のような気配。女の服装の野暮ったさが、逆に男の不純さを強調するかのようだった。対照的に女はふたりの世界に陶酔していた。たとえ女が甘い期待を抱いていても、彼は使い捨てるだろう。そんなことを直感したのだった。

 夜になって、ぼくはホテル前で日本人に声をかけて晩飯のテーブルに混ぜてもらった。彼ら四人もたまたまここで知り合ったらしく、食後にフルーツシェイクの屋台に寄ると、ひとりは途中でホテルに帰っていった。残ったひとりは濃い無精ひげで、二十代半ばくらいか、Tシャツの袖を肩までまくり上げ、最近バイクでこけたという腕のすり傷が痛々しかった。汚れた包帯に黄色い液体が滲み出ている。こっちで仕事を探していて、ホテルの面接をこのあいだ受けたところだという。だから最近は少しハッパをひかえてるねん、と彼は言った。とはいえ実際は無害なのだと力説し、マリファナ関係の言葉の使い分けを解説した。嗜好用の麻の葉を乾燥させたものを大麻またはマリファナと総称し、ガンジャやハッパともいう。樹液を固形樹脂にしたものはハシシと呼ぶらしい。「やってみる?」と彼はマルボロの箱をさしだしたが、ぼくが断るとポケットからビニールの小袋を取り出し、細かくちぎられた茶色い葉を指でひとつかみして、においを嗅がせた。市販の煙草の中身を捨てて巻き直しているのだという。「わざわざ?」とポロシャツの男が言うと、「昼間ヒマやから」と彼は答えた。
「煙草の匂いと同じやん」丸顔にメガネをかけた男が鼻先を近づけながら言った。
「乾燥してるからかな」包帯の男はつぶやいた。「指ですりつぶしてみたらわかるよ」

 空は黒く、人通りがかなり減っていた。ぼくがシェムリアップにいつ行くか考えていると話すと、あまり急がずにここにしばらくいた方がいいと包帯の男は強調した。
「なんでですか?」
「はっきりした理由はないけどさ。ここで女もやっておくのも話のネタにええかもしれんし」
 カンボジアでできることは、女とハッパ、市内観光、銃を撃つことなのだと彼は説明した。
「銃ですか?」
「バズーカも撃てるよ。金さえあれば二万円でマシンガンと弾一式買えるし。アメリカ製は二百ドル。中国製とか、どこ製かわからんようなやつはもっと安いけど」
「一度くらい女もやっておいたら」とポロシャツの男が言った。

 ポロシャツの口から出てくるのはこの町で女を買う話ばかりで、たえず話題をそこに戻し、何かにつけ女を買えとすすめた。ポロシャツにチノパンという服装に癖のない雰囲気で、二十代後半から三十代半ばくらいだろう。第一印象はごく普通に感じられたが、ここは女しかすることはないとあっさりと言い切った。女の話になると異様な粘着性を帯びる彼の目を見ながら、ぼくは、旅行者には女しか目的のないくだらない奴も多いとバンコクの宿で言っていた青年の言葉を思い出した。
「ファック、ファック、ファック!」そのとき彼は吐き捨てるように言った。「そいつらの頭はそれだけですよ」

 買春推奨のポロシャツはしばらくここにいるつもりらしく、彼もシェムリアップに急いで行かない方がいいと繰り返した。
「そうかな」と丸顔メガネの男が言った。「おれは早く行った方がいいと思うよ。明日はフルムーンだから。こんな危険なところにいることはないし」
「どうして」と包帯。
「だって危険じゃない。おれは危険はイヤだからさ。死んでも納得がいかないから。こんな殺気立ったところにはいたくない」
「でもだいぶマシになってきたよ」包帯がフォローするように言った。「やっとこの二、三日、夜の屋台がぽつぽつ出るようになってきたし」

 殺気立った空気を感じていたのはぼくだけではなかったのだ。数日前に警察と軍の大規模な衝突が起こり、市街中心部で撃ち合いがあったばかりなのだという。アメリカ大使公邸にも着弾し、その直後は暗くなると通りから人の姿が消えた。観光客を狙った強盗事件も頻発しているらしかった。

 丸顔メガネの彼は二一時前になるとホテルに帰ると席を立ったが、まだ大丈夫と引き止められてまた腰をおろしながら、溜め息をもらすように言った。
「この国は狂ってるよ。すべてが狂ってる」
「狂ってる?」
「そう、異常でしかないよ。同じ民族で殺し合うんだからさ」彼はタオルで首の汗をぬぐって言った。「それもつい最近の話だよ。そんな話、他に聞いたことないよ」

 戻った部屋には日中の蒸した空気がそのままこもっていた。外からの騒音はかなり静まり、同じフロアのどこかから中国音楽が聞こえている。寝支度をしていると突然明かりが消えた。人びとが驚いて息を飲む音が、ざわっという一つのかたまりとなって届く。暗闇のなかでぼくは耳を澄ませた。自分が殻に包まれていることを感じる。それは部屋の壁ではなく、空気の厚みだ。殻の外ではあたりが暗かろうとバイクがおかまいなしに走っていく。停電は一、二分つづき、誰も騒ぐことなくもとにもどった。

 眠りに落ちかけていたとき、隣の部屋にノック音が響いた。異国語の低い話し声。欧米系の言葉なのか現地のものなのか、はっきり聞き取れない。ベニヤ板で仕切られただけの隣室に白人がいるのは、何度か廊下ですれ違って知っていた。言語の種類はわからなくとも、口調から内容はわかった。女を買いに行くらしい。ほどなく廊下にスプレーの噴射音が響き、虫よけスプレーのにおいが漂ってきた。