再会

 ノックの音が響いた。ドアをあけると係の女の子で、また昼飯の誘いだ。ザ・ガードマン君推薦の店で彼女はおかず数品を選び、まず肉料理を口に運んでこれはダメという表情を浮かべる。ぼくは外路の日向ひなたをぼんやりと見ながら茶をすする。昨日も彼女はおかずを一品一品口にするたびに顔をしかめ、ずいぶん皿に残っているのに帰ろうとぼくに促したのだ。今日も同じ薄暗い食堂で彼女の横に座り、街路を照らすうららかな日ざしを眺めていると、子供の頃の幸せな気分を思い出す。そして彼女の屈託のない笑顔に気持ちがやすらいだ。

 そういえば大理で会った絵の彼女はどうなっただろう。ぼくが大理を発つ朝、彼女は翌日自分も瑞麗ルイリーに向かう予定だと言っていたのだ。保山パオシャンで月曜にバザールがあるらしいから瑞麗から保山に戻りたいと彼女は言ったが、それは物理的に不可能な日程だった。
「あ、そうか」と彼女ははじめて気がついたように言った。「欲張りなんで行きたいところがたくさんあって、すごくプランに困って……」

 予定通り出発していればもうここに着いているはずだが、瑞麗での宿泊予定先を訊ねられたとき答え損ねていた。アドレスも交換しておらず、ここで会わなければこれからもその機会はないだろう。彼女の絵は一度見てみたかったなとぼくは思った。

 旅に出た当初は、頻繁に住所交換をした。相手から求められるままに書き、相手のをもらった。ときには会ったばかりの相手から乞われて解せなかった。もしかしたらそれはスタンプラリーのようなものかもしれなかった。交換した住所の数だけ、旅の内容が濃くなるかのような? しかし旅が長くなるにつれ、心からそうしたいと思う人としかしなくなり、自分がそう思う相手でなければ相手からも求められなくなった。

 日の暮れ前、散歩しようと廊下に出ると、絵の彼女が向こうからやってきた。偶然にも隣の部屋だったらしい。結局あの翌日には出ず一昨日に出て、昨晩遅くに着いたのだという。

「今日はずっと眠ってしまって、今はじめて町を歩いてきたところなんです」
「てっきり別のホテルに泊まってるんか、ここはやめて別の町にいるのかと思ってましたよ」

 彼女は首を振り、昨日宿泊者名簿を見せてもらってぼくがここにいるとわかっていたと言った。

 煮物料理の惣菜が並んだ店でひとりで夕飯をとり、ラッキーカフェに入った。低い木の椅子に腰かけてチャイを飲みながら、店の人々の表情や客とのやりとりを何気なしに眺めていると、ほんのりとやさしい気持ちになった。昨日はどことなく彼らに近寄りがたい壁を感じたが、それは彼らの見慣れない濃い肌の色に警戒心を抱き、自ら作り出していたのだ。その証拠に、昨晩チキンカレーとチャイの代金を自分で計算して支払ったとき、ぼくの思い違いで金額が足りなかったはずなのに、店の男は何も言わずに微笑みをうかべていたのだ。

 三時間ほどぶらついてホテルに戻り、シャワーを浴びた。隣室からは物音ひとつ聞こえてこないので、もう眠ってしまったのかもしれない。約束はしたが時間は決めていなかった。十時という中途半端な時刻にためらったが、訪ねてみることにした。ドアをノックすると、はっきりとしない表情で彼女が出てきた。寝るつもりはなかったがうとうとしてしまったのだという。

 部屋はぼくのところと同じ配置で、書き物机の横にテレビがあり、ベッドが三つ並んでいた。彼女も一番奥の窓側を使っている。ぼくは手前のドア側のベッドに腰かけ、ベッドをひとつ隔てて話をはじめた。彼女は饒舌だった。ぼくがひと言投げかけると、二十倍くらいの言葉が返ってくる。こっちが言葉を挟まないと彼女はいつまでもひとりで話した。ぼくはベッドに横になって肘をついた。彼女の旅のエピソードは恋愛の話になった。旅の途上で出会っていったん別れた男が、彼女のルートを追いかけてきたことがあったらしい。途中の町で買ったという素敵な布をプレゼントされ(彼女はそうした民族物の織物や小物に目がないらしかった)好意を打ち明けられたが、断った。今まで誰とも男女関係なしに、ただ友達としてやってきたのだと彼女はぼくに言った。学生時代からの親しい男友達に告白されたこともあったけれど、友達以上のつきあいは拒否してきた。自分は恋愛という感覚がわからない。

「誰かを好きになったりせえへんかったの?」
「なかった、と思う。たぶん」

 彼女の話の大半は断片的でとりとめもないものだった。きちんと耳を傾けてはいたけれど、彼女の何を理解できたわけでもなく、一時間ほどして自室に戻った。ぼくはある思いを意識していた。それは自分が何を求めているのかということだった。彼女に向かいながら、磁力に引きつけられるかのような感覚を自覚し、これはいったい何なのだろうと思った。彼女とはまだ知り合ったばかりで、人間的興味以上のものがあるのかといえば、たぶんなかった。それなのになぜだろう? 

 旅に出て、愛とは何なのだろうと考えるようになった。以前はドラマや音楽のなかで安直に使われるその軽さと中身の薄さに興醒めし、白けた感情しかおぼえなかったが、今、それは別のものに変容しつつあった。言葉は容れ物にすぎない。これまでの旅のなかで、陳腐なイメージにはおさまることのない、でも言葉ではそうとしか表しがたいものにたびたび遭遇した。しかしながら、彼女を前に感じたものは、それではなかった。もしかしたら、ぼくは対象を限定し性別に条件づけられたもの――すなわちエロス――を求めているのかもしれなかった。