キロコ

 外から戻ると付近一帯が停電で、ファンは止まっていた。点検とかで四時までつづく予定らしく、疲れが溜まっていたが蒸し暑いドミでは昼寝もできそうにないので、湖畔で日記でも書くことにした。しかし木陰のベンチはどこも埋まっていて、仕方なく強い西日のあたるベンチでノートを開いたもののすぐ睡魔に襲われた。肩を叩かれてはっと目をさますと、横にポストカード売りの男が立っていた。
「ここでは眠れないよ」

 彼は深刻な表情でぼくの隣に腰をおろした。そして、公安に見つかると捕まるのだと言いながら彼は腕をクロスさせた。横になっているわけでもなし、居眠りくらいでと思った。

「あんたが、ここで、眠ると、公安」
 彼は腕をクロスさせ手錠をイメージさせながら、同じ言葉をゆっくり反復した。状況によっては彼の言うこともあながち嘘ではないのかもしれない。ぼくがベトナム人で、夜ここをねぐらにすれば。

 しかしその話の後は例によって、日越会話本やポストカードのセールスになった。ひとりにしてくれと断ってもやめないので、ゆらめく湖面を見つめながらぼくは黙りこんだ。

「彼女は日本人の女の子、キロコー」彼は向こうのベンチを指した。「とてもきれい。ボーイフレンドはいない」
 ぼくの場所からはその人物の姿はよく見えなかった。彼女はひとりでベトナムに来ていると彼はつづけた。彼女のところに行きたいかと訊く彼にぼくがいいと断ると、どうしてという。
「彼女はぼくの友達なんだ。いっしょに行こう」
「日記を書きたいから静かにしてくれよ」
「彼女はぼくの連れと話してる。あんたも彼女と話ができる」

 ぼくは立ち上がり、彼があきらめたら別のベンチを探そうと歩きはじめた。しかし彼は脇で不要な商品をさしだし、さっき彼の指したベンチの後ろを通ると、顎をしゃくって「キロコー」と叫んだ。振り返った女の子にぼくは軽く会釈した。

 なんとか解放されてまた最初のベンチに戻ると、すぐ別のポストカード売りが横に座った。ぼくが断るとあっさりとあきらめの表情を見せたが、まだ二十代前半だろうに、彼の目元は老い疲れた者のように力がなかった。家で眠ったほうがいいとぼくが言うと、彼は礼を言って去っていった。四時をすぎたところだった。そろそろ停電から復旧している頃だろう。自分もホテルに戻って寝ようと立ち上がると、さっきの「キロコ」はまだベンチで大勢のポストカード売りたちに取り囲まれていた。彼女の横で、さっきぼくを揺り起こした青年が煙草をふかしている。ポストカードの束を彼女は繰り、指には選ばれたものだろう何枚かがはさまれていた。ぼくが近づいて声をかけると、彼女は振り返ってあいまいな笑みを浮かべた。
「それ、買わはるんですか?」
「えーっ。どうしようかなーと思って」
「一枚いくらって言ってます?」
「八千ドン」

 そこらのカフェで三千ドンで売られていると教えると、来たばかりでまだカフェに入ってないからと彼女は語尾をあげる口調で言った。さっき郵便局にも置いてあった気がすると言うので、彼女が理解したものと受け取って横の男に質した。ぼくには四千ドンと言っていたのに、どうして彼女には八千ドンなんだ、と。彼は口元を歪め、公安に気をつけろとさっきぼくに忠告したときとは豹変した顔つきで別の青年と目を合わせた。そして横柄な素振りで紫煙をはき出すと、吸いさしを彼女にさしだした。彼女はためらいなく受け取るとひと吸いし、顔を斜めにあげて勢いよく煙を吹き出した。慣れた仕草だったが、まわりの男たちを意識したぎこちなさが感じられた。ポストカード売りたちは、彼女が煙を吐き出すたびに笑ってはやし立てた。

 ――ベトナムでは女の子が煙草を吸うべきじゃないよ
 ――健康に悪いしね

 バカにされていることに気がつかないのか、彼女はただ薄ら笑いを浮かべている。
「買うんです?」他の言葉を見つけられずにぼくは言った。
「えーっ。もう選んじゃったし、悪いかなーって」

 彼女が状況をまったく認識していなかったことにぼくは呆れた。

 集団のなかに、一昨日ぼくが言葉を交わした十七、八歳の青年がいた。そのとき彼は日本人の女の子からもらったという時計をぼくに見せ、日本での売価をしつこく訊いてきたのだった。ぼくが適当な値段を口にすると、時計を売りたいから買ってもらえないかと彼は切り出した。英語学校の授業料の支払期限が近いのにタイで働く父親からの送金がまだなのだと彼は説明した。ただ、服装と話の内容が妙にアンバランスだった。他の物売りの少年たちとは違って彼はこぎれいで、それは汚れていないというだけではなく、Tシャツなどは真新しく、少なくともぼくのよりよっぽど高価そうだ。さらに、表情にはときおりどこかうさん臭げな気配がうかがえた。彼の話が作り話じゃないかと思えてきたぼくは、時計の値段を答えてしまったことを軽く悔いながら立ち去ったのだ。

 今日の彼の髪はきれいに刈り上げられ、ベルサーチのロゴが散りばめられた、おろしたてのようなTシャツを着ている。まわりのポストカード売りたちの、薄汚れてところどころに穴のあいた身なりのなかで、彼は際立っていた。昨日散髪をしたのだという彼のシャツを褒めると、得意気な顔をした。新品かと訊くと、香港製で親父が送ってくれたんだと彼は言った。

 女の子にアピールしようとしたのか、彼はぼくが聞いた話をほぼ同じフレーズで繰り返した。自分の親父は香港で働いているが、送金がまだなく、英語学校に払わなければいけないのにお金がない……。そのよどみない説明は、はじめて耳にするならば不審なところはなかっただろう。ただ一昨日とは一つだけ単語が違っていた。
「香港?」とぼくは訊いた。「お父さんは香港に住んでるの?」
「そう」
「この前はタイって言ってたやないか」

 彼は一瞬しまったという表情を浮かべたが、薄く笑いながら取り繕った。前はタイで働いていたけど、今は香港にいる、そして将来は自分も香港で暮らすだろう。真実味のない、自分自身で滑稽さをおぼえつつ嘘を重ねるふてぶてしさが表情にはりついている。胸元にはティファニーという文字が刻まれたペンダントが光っていた。今日買ったという。昨日、あの時計を四十ドルで売ったらしかった。
「誰に?」
「外国人。四十にしかならなかった。その金で英語学校に支払って、ペンダントを買った」

 授業料がないというさっきの言葉は過去のものになったわけだ。仲間たちのからかい口調の言葉に、彼はベトナム語でやりとりしはじめた。
「じゃあ帰ります」とぼくは彼女に声をかけた。
「あ、はい」彼女はふたたびあいまいな笑みを浮かべてぼくの方を向いた。

 いいカモにされることは明らかだった。けれど、これ以上関わり合う気にはならなかった。そして、オシャレな彼の話も、ほんとうであろうとなかろうとどっちでもよかった。
「気をつけて。いろんな人間がいるから」

 水は、やはり低い場所に向かって流れていくのだろうか? 行き着くべきところまで、動きを止めることはないのだろうか。人は、なぜ愚かさのなかに流れていくのだろう? そしてぼく自身も……。