紛争勃発

「物盗りに殺された旅行者っていうのはアメリカ人らしいよ」

 朝起きると、昨晩ナイトクラブに出かけたタクさんが教えてくれた。強盗殺人の噂はデマではなかった。その影響か、クラブの客は彼ら二人だけだったのだという。

 三人で中央郵便局の表に出たところへ、いつもホテル前にいる顔見知りのバイタクが白人をのせてやってきた。客が降りると声をかけてきたが、いつものような乗車の誘いではなかった。

「ここと空港の中間くらいの場所に軍が集まってる!」ドライバーはなぜか得意げな顔で叫んだ。「撃ち合いが始まりかけてるんだ!」
「軍?」

 話がよく飲み込めなかった。演習かと思いきや、ドライバーの口からつづいた「戦争」という単語とは相容れない。今朝は空港へもベトナム国境へもタクシーは皆行こうとしなかった、と彼は語調を強めた。

「まじかよ」タクさんが反応し、自分はこれから空港に行くつもりなんだと説明した。
「幹線道路とそこは少し離れてるから、空港に行くなら問題ない。タイ航空はもうストップしてるけど、ロイヤルエアーカンボジーなら大丈夫だ」

 しかしどうもピンとこない。それよりも数日前の強盗殺人の方に関心を向けるぼくたちに、アメリカ人たちは夜道を歩いていてホールドアップされたとドライバーが教えてくれた。かばんをとられかけたときに反抗したから撃たれたのだという。

 タクさんが先にホテルに帰ると、ぼくとヤマギワさんはセントラルマーケットに寄った。しかし大部分の店が閉まっている。今日は休みなのかと話していると急に空の雲行きが怪しくなり、今にもスコールが来そうな暗雲にぼくたちは急いでバイタクをひろった。

 スコール前後の天候のように、人の関心事は刻々と移り変わっていく。物盗りに殺されないための方策は頭から去り、びしょ濡れにならないことに意識は向かう。もっと厚い雲がその上を覆っていることに気づかずに。バルコニーに出ると、向かいのつぎはぎの集合住宅の様子がいつもと違い、屋上や各部屋のベランダに人が出ている。そのうち空が黒雲でふさがれてもスコールははじまらず、住人たちの姿もそのままだった。

 ところが、空港へ向かうタクさんを見送りに降りると、辺りの空気は変質していた。銃撃戦が軍同士で始まり、空港は閉鎖されたと皆が騒ぎ立てている。戦車での発砲も行われているらしい。ホテル下のバイタクドライバーたちは、「これが始まったんだ」とバズーカを撃つ真似をしながら興奮気味だ。さっき郵便局で会ったドライバーが、空港に行くのかと話しかけてきた。「死ぬぞ」と首を切る仕草をするので、「おれは行かへんよ」とぼくは首を振る。「五ドルはダメ。一〇〇ドルならおれ行く」と言う彼に「おまえ死ぬぞ」とぼくが首を切る仕草を返すと、「ジョークだって!」と笑いながら手をさしだしてきて、ぼくたちはなぜか握手する。

 そのときはまだ「銃撃戦」という言葉は具体的なイメージを結ばず、先日大使館通りで起きたという軍と警察の衝突と同様、スコールのように寸刻でやむのではないかという気がした。雷の遠鳴りがつづいていたが雨はまだ降りださない。空を仰ぐと、ベランダや屋上で遠方に目を凝らす住人たちの姿は悠揚として、文字どおり高みの見物といった趣があった。一方、通りの商店は早々と店じまいをはじめていた。蛇腹扉の七分方閉められた店の前で、主たちが真剣な面持ちで寄りあつまっている。通行人の表情にも、ふだんのスコール前後とは違って緊迫したものが見えた。バイクの数が激増し、運転手の後ろで果物のカゴや大きな荷物を抱えシートぎりぎりに座った人びとが走りすぎていく。

 やがてはじまったスコールが短時間でやむと、雷の遠鳴りだと思っていたものが実は砲弾の発射音だったと気づいた。耳を澄ますと、ときどき機銃の連射音が重なった。表で動静をうかがっていると、日本人の若い男があらわれた。彼は、今の持ち金すべてで一万いくらなのだと聞きもしないことをベラベラとしゃべりはじめた。断片的な情報や憶測だけで高まっていく危機感をもてあましていた旅行者たちにとって、その抜けた空気を漂わせた男の出現は突飛といえるものだった。

「先輩がここにおるからあてにしてたんですけど、電話かけてもつながらへんのですよ。金もないし、どうしたらええのかわからへんし、とことん困ってしもて」
「T/Cは持ってこず?」
「はあ。現金だけ」
「一万ちょっとの?」
「先輩がおるし、おごってもろたらええかなあと思て」
「よくそんなので来たねぇ」
「ぼく、貧乏なんですよ」

 二日前に来たばかりで地理にも不案内でどうしたらいいかと他人事のような口調で問う彼にどう答えたものかと皆が口をつぐむと、彼はつづけた。
「今日の昼間、とりあえず持ち金ぜんぶドルに両替したんですけど、昼飯のとき、ついビールを飲んでしまって。それでもう残り八十ドルちょっとになってしもて」
 哀れんでくれといわんばかりにどうしたらいいかと繰り返す彼に、じゃあ先輩のところに直接行ってみるしかないと誰かが言うと、住所がわからず、どこで働いているのかも聞いてないという。
「ということは電話以外に連絡の取りようがないってこと?」
「そうなんですよー。どないしましょ?」

 彼は助け舟を待っていたが、自助努力なくルーズさを告白する態度は誰の哀れみも誘わなかった。彼の緊張感のなさと自分たちのギャップは、一見ふだんとかわりのないこのホテル前の状況と郊外ではじまった戦闘の違いと似ていた。彼の登場に最初は引き寄せられた人びとも、川の淀みにたまっては流れゆく木片のように徐々に離れて行った。

 夕方になると砲弾音の間隔はぐっと縮まり、音量もいくぶん大きくなった。宿泊客たちはぼくたちの部屋の横のバルコニーに集まり、進展を静観していた。表通りではほとんどの商店は扉を完全に閉じ、露店もまばらだ。向かいの建物のベランダでも、今なお音源を透視するかのように見遣る人びとがときおり南を指し示している。しかしこちらからは何も見えず、ただ聞こえてくるだけの音には意外と緊張感がなかった。遠くの花火に思えなくもない。でもこれは違うんだ、とぼくは自分に言いきかせた。

 外の様子を見に出ると、店舗前の歩道で子供がぞうり投げをしていた。ぞうりで枠のなかのカードや紙幣を外にはじき出す。その姿を親らしき中年の男が微笑みながら見守っていた。暮色があたりに満ちていた。短いスコールに洗われた空気は透明で、暗くなりはじめた空の雲間からうすい青空がのぞいていた。地上ではこんなことが起きているのに、その青はまるで関係なく清々しかった。

 衛生放送のNHKニュースを見ようと近くのカフェへ行きかけると、階下のレストランにシェムリアップで同宿だったイワタさんの姿があった。

 たしか、今朝コンポンサムにバスで向かったはずだった。そこから海路でタイに入国したい、と。現在、空路しか許されていない越境方法に飽き足りない旅行者のあいだで密かにたどられているルートらしい。しかし同じくシェムリアップで同宿だったエジプト人が自分も行きたいと言い出したので困ったと言っていた。その男とはぼくも話をしたことがあるが、今はギリシャで画家をしているらしかった。仏教について話し込んだ翌日、彼はバイタクのドライバーと目をあわせ、「ブンブーン!」と叫んで下卑た笑い声をあげた。それはセックスの隠語らしく、そのドライバーに連れられて置屋に通っていたようだ。で、そのエジプト人が自分も行くと言いながら、海からのルートは現在不可能だという情報をつぎつぎとイワタさんのもとに集めてくるという。以前ならタイ警察に捕まっても入国が許され、同時にタイビザを取得することで変則的な出入国手続きとしてくれたが、現在は送還されるらしい。

「しまったなーと思ってや。同じ行くにもさ、入れるかどうかわからないで行くのと、たぶん無理だと知っていくのとでは気分が違うでしょ。だめだったら戻ればいいんだけどさ、行くときの気分がだな、ぜんぜん違うでねか、やっぱり」
 昨晩、アンコールビールを数本空けて吹き出した汗を拭いながら、イワタさんはそんなことを言っていたのだ。近づいて声をかけると、結局海路でのタイへの出国はかなわなかったのだという。
「あのエジプト人がねばりにねばって交渉したんですけどねぇ。それでもムリでしたよ」
 最近同じような旅行者が増え、タイ警察の姿勢も硬化しているらしかった。
「まぁ、でもわかりませんよ」とイワタさんはつけくわえた。「あのエジプト人が三〇ドルでも渡してれば、どうなっていたかは」

 いっしょにカフェに入るとNHKではJリーグの中継中だった。チャンネルを変えるとCNNアジア版ではカンボジアのニュースがトップだ。第一首相と第二首相の政権争いが高じた末の武力衝突らしく、戦車と戦闘の映像が流れた。

 部屋に戻ると、タクさんの友人ふたりがやってきて彼をクラブに誘った。昨晩と同様また繰り出すらしい。そのひとりはいつも吹聴しているケミカル系ドラッグを飲んだらしく、相当ハイになっている。さすがにタクさんが固辞すると、彼らにも不安があるのか、自らに言い聞かせるように安全だと繰り返した。けれどタクさんにまったくその気がないのを見て取ると、あきらめてふたりだけで出かけていった。

 静かな夜だった。二一時すぎには通りから人影が消え、ひっそりとした路地を走りぬけるバイクのエンジン音がごくまれに聞こえてくるだけだ。しばらく本を読んで明かりを消したものの、疲れているはずなのになかなか寝つけなかった。

 深夜、腹の調子が悪くて目をさまし、便所に入った。便器に座って目を閉じながら、ぼくは腹に手を当ててじっとしていた。あたりは静まり返っていた。ときおり猫の鳴き声があちこちで響き、何匹かの犬の遠吠えがそれにつづいた。いつもなら他の雑多な音に混ざって聞こえてくる動物たちの声がただそれだけで耳に届くのがなんだかふしぎだった。その声のストレートさが、夜の空気の硬度を感じさせた。