メコンに流れくる人びと

 バスに乗り込むと、おおかたの座席は埋まっていた。

 メコン川の下流を訪ねる安いツアーだった。メコンは、中国、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジアを経て、この地で海に流れ込む。ホーチミンの喧騒からしばし離れるのに、この日帰りツアーはちょうどいいかもしれない。そう考えてぼくはひとりで参加したのだった。

 二時間半ほどでバスを降り、十数人乗りの小船数艘に乗り換えると、茶色い水をたたえたメコン川をさかのぼった。

 船を降りた養蜂園でテーブルにつくようベトナム人ガイドに促され、ぼくは白人の女と少年ふたりのテーブルに行き、同席していいかと訊ねた。もちろん、と鷹揚に答えた中年の女は、夫の仕事の都合で半年ベトナムに住む予定だが、カナダからきてまだ一週間なのだという。その語調には、この国には短期間しか滞在しないのだという意思のようなものが漂っていた。フルーツワインが出されると十一歳と十四歳という息子ふたりがまずいと騒ぎ、蜂蜜入り紅茶が出てきて十一歳がワイングラスを倒すと、「どうしてじっとしてないの!」と女は眉をつりあげて叱った。

 テーブルに置かれた蜂蜜の瓶のまわりを数匹の小蜂がとびはじめると、十四歳が瓶のふたを閉めようとおずおずと手を出したり引っ込めたりしている。さっき従業員も養蜂箱から素手で巣を取り出していたから、無茶しなければ刺されなさそうだ。けれどそんな判別のつかない少年は猛獣と格闘でもするような挙動で、やがて蜂は瓶の内側に入り込んで外に出そうになかった。

 女との会話はその時点でつまっていた。ベトナム料理の話をしても、ちょっとしたことを訊ねても、素っ気ない一言二言が返されるだけで話がつづかない。ぼくが自分のことを話しても同じで、子供の前で下手な英語で話しかけないでともいうような空気が感じられた。他人とまじわる意欲がないのか、それともぼくの英語の未熟さゆえだろうか。自己疑問の輪にはまりかけたぼくは、些末なことに引っかかって話をつなげられなくなる。

 仕方なく、黙ってその場の空気を感じていた。皮のむかれたフルーツが皿に盛られていて、かじってみると青臭く、小さな種が歯にゴツゴツとひっかかった。女も一口食べて顔をゆがめた。話のはずんでいる他のテーブルとは対照的に、ぼくたちは長い沈黙のなかにあった。しかしそのままでいると、まわりに感覚が開かれていく。養蜂園は青々とした樹々に囲まれ、静謐と心地よい雰囲気に満ちていた。さっきまで頭のなかにうずまいていた過去分詞だとか、取るに足らない思考はなくなった。まあいいや、と思えた。この沈黙を噛みしめていよう。ぼくはもう質問をさがさず、無言のままでいた。すると女が「早く出発しないのかしら。退屈だわ」とつぶやくように言った。そして、召使いを叱責するような口調でガイドを呼びつけた。
「ちょっと! この次はどこへ行くの?」
「ココナツキャンディの工場へ行きますよ。このフルーツは食べました?」
「いらない。まずいわ」
「もっとワインはどうですか」
「まだ出発しないの?」彼女は彼の言葉を無視して高圧的に言った。
「もうすぐですよ」
「この平和な空気をゆったりと味わえないのか?」とぼくは頭のなかで英語で言ってみた。

 隣で十四歳が蜂蜜の瓶にやっと蓋をしたものの、中にいた蜂が蜜に沈んでしまっていた。「どうするのこれ?」と息子がしきりに問いかけると、女はいらつきながら「もう触らないの、放っときなさい!」とぴしゃりと言い放った。なおも騒ぎつづける子供からぼくは瓶を取り上げ、傾けて蜂蜜といっしょにその蜂を地面に落とした。蜜におぼれていた三匹はしだいに動きがとれるようになり、ぼくは蓋をしめてテーブルに置いた。ところが後で出発前になっても、子供はまた瓶の蓋をあけ、蜜に近づく蜂と大げさに挌闘していた。

 帰りの小舟で広い河に出たとき、誰かの帽子が水面に落ちた。船頭に知らせる大声で、韓国人の中年の男たちと話をしていたぼくを含めたおそらく乗客全員が、指さされた帽子の行方を目で追った。すると、世界の中心は茶色い水面に浮かぶ帽子になる。小舟が引き返して波間に漂う白い帽子をひろうと、皆の心がほどけて溜め息のような声がもれた。スコールが降りはじめた。ぼくたちはビニール製の覆いをおろし、川面に跳ねるたくさんの滴をじっと見つめた。

 帰りの車中で、さっきのカナダ人の中年女は人が違ったような盛り上がり様だった。最後列で二十歳前後の白人の青年ふたりと打ち解け、締まりのない表情でだらっと座っている。それまでの硬い態度は崩れ、なぜかシャツのボタンをはずして胸元を大きくはだけていた。隣の若者にしなだれかかるように体を寄せる様は、熟れて腐り始めた果実を思い起こさせた。子供の前だとか教育的意識などなかったのだ。若者のちょっとした言葉に彼女がバカ笑いする声が、疲れて眠り込んだ人びとのあいだに響いていた。

 途中で大蛇のいる休憩所に停まると、大蛇を首にかけて喚声をあげる人を後目にぼくは空を見上げた。小雨はやみ、日が暮れつつあった。空は美しく、休憩所を離れても、車窓を流れゆく風景に引きつけられた。閑散としたカフェの前を通りすぎる。カフェといっても、まわりを野に囲まれた屋根付きガレージみたいな空間だ。客は誰もおらず、椅子だけがこっちを向いてペアで並んでいる。茜色に染まった空に煙のような雲がたなびいていた。

 バスが朝の出発場所に戻ると、ガイドが愛想笑いを浮かべて繰り返した。アンケートをお願いします、わたしにいい評価をもらえると、いいボーナス、いい給料……。乗客たちは、ガイドの生活には関心なさそうな眠たげな顔で、もとの喧騒の町に降りていく。