発熱と平穏な夕暮れ

 露天市場にならぶ色鮮やかな野菜や珍しい食材と同じく、通りを行き交う人々の顔には味があった。食堂の前で大きなホーロー容器を手にした人々が短い列を作り、通りに机を出して老人たちが中国将棋をしている。

 汗ばむほどのうららかな日和だった。紅葉樹は秋の色をつけて落ち葉を路上に散らしているのに、丸みを帯びた、春の日溜まりを思い起こさせるような光が降り注いでいる。

 夕方になると、北京路の歩道では監視役の女が屋台に口やかましく撤去を命じ、文明監督という腕章をつけた中年女が道行く人々に猜疑の視線を投げかけていた。公園のはずれにはむかし日本にもあったような見世物小屋があり、半人半獣の仰々しい看板が好奇心を煽っている。道端の掲示板には「恋愛不成」云々という大見出しで殺人事件の記事が貼られ、容疑者と現場の血まみれの遺体が写った写真が生々しく挿まれていた。

 町は人民服姿のように質素で飾り気がなかった。商店の店先さえ、当初は直截的ちょくせつてきで色気がなく感じられた。しかし目的なく路地をうろつくうち、看板や垂れ幕のなかの漢字が立ち上がるように目にとびこんでくるようになった。漠然と意味がわかるものはわずかで、さっぱりのものが大半だ。それでもあれこれ類推しているうち、頭の奥でスイッチが入るように連想がひろがっていく。好奇心と古い記憶のまざった感覚が、ここに到着したときの、日本と重なる印象の奥へと扉を押し開いていく。たとえば菓子問屋のあつまる通りの光景は、ぼくの遠い記憶を喚び起こした。一斗缶で仕入れられた菓子が店頭に並んでいた時代だ。あれから二十年以上を経た今、パッケージに派手な色使いもない菓子が店先に山積みされている。その古ぼけた缶みたいな色調のなかにたたずんでいると、菓子の山のあいだから子供がひょっこりと顔を出し、どれにするか決めきらない視線をあちこちに注ぎはじめた。

 そうやって数日間、町をそぞろ歩き、露店のハミウリを立ち食いし、売店でうまいヨーグルトを飲み、かわいらしい店員に「中国No1さん」などと愛称もつけた。しかし災厄の兆候を思わせる発熱が雨雲のようにぼくを覆っていた。ベトナムからの発疹と痒みがやっとひいた矢先だった。熱は気まぐれのようにふらふらと上下したが、少し無理するとたちどころに上がる。けれど解熱剤はまったく効かず、頭部の鈍痛もおさまらない。だからできるだけ出かけないようにしていた。

 ある夕方、ひとりで食事に出た。外に出ると涼しく、体も軽く感じられる。路傍に体重計を置いたおっさんに五角払って体重をはかると、旅行前より二キロ減っていた。大理に向けて明日出発の予定だったが、しばらくここで安静にしていた方がいいのかもしれない。でもそう言えばナナさんたちがいっしょにとどまってくれようとするのではないか。外に出ずに寝ているといえば放っておいてくれるけれど気を遣わせているはずで、調子を訊かれると、悪くても「まあまあいいよ」とぼくは答えた。いずれにせよ、行動を共にして迷惑をかけるのが申し訳なく、自分にとっても負担に感じられた。

 通りがかった食堂の店先で、餅のような団子が目に留まった。しかし大きな店でもないのに発券所は別で、無愛想なおばはんの頭上に掲げられた幾種類もの料理名の内容も発音もわからない。店員の女の子に声をかけてもとりつく島もなく、発券所で言えとそっけない。こんなときはちょっとした機転で何とかなるはずだけれど、頭を働かせる気力がなかった。あてずっぽうに頼んで出てきたワンタンを食べ、次にやっと餅団子にビンゴして満腹になった。別の店に入ってトマトジュースを飲みながら、椅子に座ってぼんやりと通りを眺めた。何組かの女の子が甘いデザートを食べながら話をしていた。どこでも女の子は甘いものが好きなんだなと思った。そして夕暮れはどこにおいても平穏だった。

 ベッドに横になっていると、ナナさんとともに聞きおぼえのある声が入ってきた。ホイアンで一日だけ部屋をシェアした大学生の女の子だった。彼女曰く、美容庁――日本でいう美容室――の多くは売春所を兼ね、日本人留学生たちに「四パツ」と呼ばれているらしい。その理由がわかるかという問いにぼくたちが首を傾げると、彼女は声を張り上げた。
「髪を切ってもらってサンパツ、奥で一発でヨンパツ!」

 なるほど、夜になると近辺の美容庁はピンクのネオンで妖しげな雰囲気を醸し出している。ナナさんがヒアリングしたところ、洗髪は二〇元(約二八〇円)、マッサージ五〇元。わざわざシャンプーだけしてもらったという旅行者の話では、爪を立てられて相当痛いらしかった。

 結局、ここにいても空気も悪く体にもよくなかろうと、明朝に大理へ発つことになった。しかし迷いは消えなかった。ぼくは肝炎を疑いはじめていた。長時間の移動で悪化しないか、ここは慎重に考え、病院で検査しておいた方がいいのではないか、そのためには昆明にいた方がいいのではないか……。