色褪せた町

 あきらかに急いている。ボートツアーも、宴会での酒の飲み方にしてもそうだ。この街や人びとに早く同化しようと無茶していた。そんな自省から、数日間は同宿の旅行者と行動をともにした。けれど、誰かといるとバリアや緩衝帯ともいえる奇妙な空間ができてしまう。外にも内にも充分に拓かれることのない鈍った感覚のまま、日本からひきずってきた意識だけが歪んでいくような気がした。

 これまでの感覚のままではだめなんだと思いながら、アラブ人街やインド人街にひとりで出かけた。しかし興味をひかれるものはなかった。そばの大通りに建ち並んだオフィスビルやホテル、デパートも。同じだという思いばかりが募っていく。買う気もない露店を冷やかして強い日ざしのなかを漫然とうろついても疲労感が増すばかりだ。冷房の効いた小さな本屋で本の背表紙を眺め、飽きると外に出て、公園に入って芝生に腰をおろした。
 人びとが思い思いに夕暮れのひとときを涼んでいる。ひとりでの読書、肩を並べ会話するふたり、ただぼんやりとする人……。噴水をバックに、ウェディングドレス姿の女とタキシードの男がカメラの前でポーズをきめ、水辺では小さな男の子を連れた若い男女が子供を遊ばせていた。そんな光景を眺めていると、どこでも変わらないんだなと思えた。

 タイに来て、大人たちが子供を慈しむ光景に頻繁に出会った。ここでは自炊の習慣があまりないらしく、市場や屋台のくだけた雰囲気のなか、家族そろって人目を気にせずに食事する飾らない姿があった。赤ん坊をあやしながら皆で頬擦りやキスをする情景はとても基本的で大切な日常であるはずなのに、ぼくはそうしたものを長らく目にしていなかった気がした。

 帰りのバスは身じろぎもできないほどの混雑で、全開の窓から流れ込む排気ガスのひどさに辟易した。前に立つ男の白いシャツの背中にじっとりとにじむ汗に目を留めながら、ぼくは、同じなんだなという思いを反芻していた。ワールドトレードセンター前で多くの乗客が降り、初日に空港で出会った女の子が言っていた「センター」がどこだったのかわかった。空いた座席から窓の外を眺めながら、そろそろここを離れようかと思った。渋滞でバスが動かなくなると、ぼくはだいぶ手前で降りて歩きはじめた。

 ベジタリアンフードの屋台に寄って早い夕食をかきこんでいると、日本人らしき男がふらりとやってきた。他に席がなく、ぼくと向かい合わせに座った彼の風貌は特徴的だった。ぼさぼさにのびた髪にぎょろりとした目。やつれた感じのがりがりの体躯は動きがふわっとしている。ろうけつ染めの黒いTシャツにひも編みのエスニック風のかばんをたすきにかけ、民族服っぽい薄綿の涼しげなロングパンツ。ぼくは無言のまま視線も合わさず、近所の住人の方をずっと見ていたので、無視する形になってしまった。別のテーブルがあくと彼はそこに移り、ぼくに背を向けて座った。

 向かいの家の前で、小さな女の子が泣きわめいていた。母親に反発しているらしく、叱られても拗ねて意固地になり、椅子にしがみついている。母親も口数は少なくとも子供と向きあう姿勢は厳として、互いにすさまじいエネルギーを放っていた。そのうち女の子が紙幣とおぼしき紙束を放り投げ、地面にばらまいた。すると母親がついに怒号を浴びせた。女の子は烈しく泣きじゃくりながらも抵抗の姿勢を崩さなかったが、やがてしぶしぶ紙幣を拾いはじめた。ぼくは思わず微笑みながら、どこでもいっしょだなとまたしみじみ思うのだった。人の姿は変わらない。暑いときにはシャツの背中に汗がにじみ、ひどい排気ガスに口を覆い、親に反抗する。ぼくは違うとでも思っていたのだろうか……。

 たとえば水上ボートを降りて細い路地に入ると、日本の昔日に存在していたような暮らしぶりがあった。そうしたものを到る所で目にできるのはすばらしいけれど、そのそばに居続けたいと今望んでいるのかというとそうではなかった。じきここでも失われていくのだ。とても安らぎを感じさえするけれど、ぼくのすべきことは観客としてここに留まることではない。

 前のテーブルで、さっきの男がしきりに咳をして背中を揺らしていた。ぼくはにわかに、さっき一言さえ言葉をかけなかったことが悪く思えてきた。それで、男の背中にすいませんと声をかけた。日本の方ですかと問うと、警戒するような表情を浮かべて彼は振り返った。

 彼はベジタリアンで、いつもここに来ているという。タイではやはり食べるものに苦労する、インドなんかだと結構楽なんだけどねと言ってまた咳き込んだ。ぼくはテーブルを移り、しばらく彼の話を聞いた。インドに長くいたが、あとひと月ほどで帰国するという。彼はたびたび激しい咳をしながら苦しそうに顔を歪めた。
「熱を出しちゃって、それはおさまったんだけど」
 風邪をこじらせてしまい、なかなか治らないのだと彼は言った。体の痩せ具合からして、あまり栄養のあるものを摂っていないのだろう。顔色もよくない。
「ぼく、薬持ってるんで、よかったら。ビタミン剤なんですけど」

 宿までいっしょに行き、外で待っていてもらった。バックパックをあけ、ビタミン剤のシートを取り出した。ぼくの旅はこれからなのだから、自分の分を多く残しておいたほうがいいという考えが瞬間的によぎったが、彼の様子を思い返し、先のことはどうにかなるだろうと半分を持って戻った。彼のふわりとした印象から、もうどこかに行ってしまったかもしれないという気がしたけれど、彼はちゃんと待っていた。

 こんなにたくさんいいんですか、と彼は言った。たぶんぼくの態度のせいで、彼は最初はぶっきらぼうでぞんざいなしゃべり方だったが、しだいに丁寧な口調になっていた。
「これから先、長いんでしょう?」
「いいですよ」
 自分で飲む分はあるのかと訊かれ、先は先でなんとかなるからとぼくは答えた。彼は素直に頭をさげ、去っていった。後姿を見ながら、彼とはもう会うことはないんだろうなとぼくは思った。それでも、ちゃんと声をかけてよかった。

 宿近くの寺の石段に腰をおろすと、昼間の余熱を放つ石のあたたかさが心地よかった。境内にはたくさんの犬がねそべり、ときおり通り抜けるぬるい微風が緑を揺らしていた。しばしそのゆったりした時間の流れにたたずむと、ぼくは寺を出て、露店や通行人のひしめく通りを歩いた。そしてふと気がつくと、さっきまで活き活きとしていたはずの下町の光景が色褪せて見えた。人びとのやりとり、その表情、活気、町角の小寺院のエキゾチズム……。日本と違う。けれど、根本的なものは何ら変わらない。自分はここで何をしているのだろう? ゆらゆらと、ぼくの足取りのように緩慢な、しかしたしかな何かがぼくをとらえていた。