夜の淵 ダーナン

 午前中にダーナンでバスを降りた。下車する旅行者は少なかったが、中部の商業都市と呼ばれる町にすこし興味をおぼえていた。いつものようにシクロドライバーが声をかけてきて、なにを探してるのかという。別になにも。ところが、男の次の言葉は予想外だった。
「カワイを知ってるか?」

 男のひろげた紙には、ぼくの名前がローマ字で書かれていた。しかもフルネームで。見覚えのある字のような気もしたが、「彼はホテルで待っている」と男がつけたした言葉がひっかかった。彼? 思い当たらずに男か女か訊ねても「彼は待っている」と言うばかりだった。ところが最初に案内されたホテルは満室で、結局「彼の」ホテルはあやふやになったと思われた。しかし、次に連れられたホテルで念のために宿泊者名簿を見せてもらったところ、そこにあったのはウエノさんの名前だった。二日前にここをチェックアウトしていたけれど。

 上唇のかぶれがしだいに悪化していた。向かったダーナン病院は日曜で休みだったため、仕方なく薬局で薬を買って帰った。ところが、さんざん確認したというのに薬は唇には禁忌らしかった。ベッドに寝転がって薬の説明書を読んでいるうちに寝入ってしまったらしい。突然の雷鳴に目をさました。

 エレベーターなどない五階の部屋はそれほど清潔ではないものの、開け放たれた窓から眼下にたくさんの民家が見渡せた。静かでのんびりした空気も気に入った。しかし、外で降り始めた雨が入らないよう雨戸を閉めると、室内は暗く陰鬱となった。雨がやむと、ぼくはぼんやりとした頭で夕飯に出て、バインミーをかじりながら通りを歩いた。

 東の黒い空が、切れかけた蛍光灯のように音もなく明滅している。あてもなく、雨に濡れた町をひたすら歩きまわった。カフェの前、悪臭を放つ路地のそば。そして、放心したように道端に座りこんだ、ぞうりさえ履いていない貧しい身なりの女性の横を。途中、ましな部屋を探したが手頃な部屋はなかった。空模様と唇のかぶれに暗い部屋となると、それだけで物憂かった。ニャチャンあたりからひきずっていた考えにまたとらわれていた。

 カンボジアからベトナムに入って以来、ずっと誰かと部屋をシェアし、いっしょに行動してきた。だからかもしれない。何を食べどこに行くといったことに意識の向かう日々のなかで、当初ひとりでありたいとのぞんだことなど忘れ去り、同時に旅の動機もどこかに消しとんでしまったかのようだった。しかし実際には、もともとそんなものはなかった。自分は何のためにここにいて、なぜ旅をしているのだろうか……。

 カフェから懐かしい音楽が聞こえていた。昔よく耳にしていたのに、曲名もボーカルの名も思い出せない。ぼくはそのメロディーにつながる記憶をたどろうとした。八年か九年前、ぼくが働いていた京都の喫茶店にこの曲の入ったCDがあった。当時、休日になるとよくひとりで憑かれたように京都の路地をほっつき歩いた。そのときは、古い町並みの先を曲がれば何かがあらわれ、夜の奥処おくかに手を伸ばせば何かがつかめそうな気がした。けれど今は、そんな前のめりの気持ちはない。向こうに見えるのはただの暗翳あんえいで、そこには曲名や歌手名さえも浮かばない。人通りのない暗い道を歩きながら、ぼくは暗闇の向こうに手を伸ばすかわりに、内容というほどのものもない、誰に宛てるでもないとりとめもない思いを手紙を書き綴るように、心のなかで反芻しつづけた。

 通された部屋に登場した医師は、物腰のやわらかな中年の男性だった。これまでに会ったベトナム人とは雰囲気がかなり違う。
「どうしましたか?」彼は柔和な表情で言った。

 症状を説明すると、彼はルーペでぼくの唇を見た。そして、分厚い英文の医学書を開き、読みながら説明してくれた。清潔と乾燥を心掛ければ発症後二十日ほどで自然に治るらしい。だから薬も必要ないという。彼の終始にこにことした顔に、親戚の町医者のおじさんの表情がかさなった。そのとき彼のポケベルが鳴り響いた。

 ハノイで何かあればここに電話してくださいと彼はぼくに名刺を渡し、日本の住所を書いてくださいとノートをひらいた。おずおずと料金を訊ねると、なにもしていないし薬もいらないので必要ないという。これまでの経験からすると信じがたく、ニャチャンでのウエノさんの診察のこともあった。しかし冗談ではなさそうだ。彼は口ごもって考える表情をしてから、手をさしだした。その手を握りながらぼくは礼を言い、診察室を出た。

「サヨナラ!」
 後ろから響いた日本語に振り返ると、彼が手を上げていた。さっきはこの言葉を思い出そうとしていたのだ。ぼくも手を上げた。
「さよなら!」

 これまで旅行者の弱みにつけこむような輩の態度に嫌気がつのっていただけに、清新な驚きがあった。そして人柄のにじみ出たような表情が余韻となって胸に滲みた。

 病院から戻り、朝食をとろうと店に入ろうとしたとき、背後から声がかかった。
「ショクジデスカ?」
 陽によく灼けた中年男にぼくは驚いて訊ねた。
「日本語を話されるんですか?」
「ぼくは日本人なんです」

 ベトナム人かと思ったとぼくは詫び、同じテーブルに座った。こっちで働いているというのでどこかの企業のビジネスマンかと思ったが彼は否定し、店の元主人だという老人に声をかけてミークアンを注文した。ただ、ここで働いているという割に彼のベトナム語はカタカナの棒読みのようで、数字の発音ひとつとってもお世辞にも上手とはいえなかった。

 ダーナンは何度目かと訊かれ、はじめてだと答えると、ぼくのことを矢継ぎ早に訊ねた。日本で何をしているのか、旅の期間、これまで滞在した国と町、今のホテルの値段、前職……。これほど遠慮のない一方的な質問も珍しい。彼はサイゴンで喫茶店を開こうとしていて、ひと休みしようと小旅行中なのだという。
「若い人と話をするのが好きでね。昨日も、徳島で先生をしている女の子と知り合って、三時まで飲んでたんですよ」

 今日も彼女のフライトまで町を案内する予定だったが、朝迎えに行くと体調が悪いと言い出し、空港に送ったところだった。ホーチミンに向かう彼女に「自分の家」を一週間好きなように使っていいよと言ってあげた。自分に責任があるとも感じてね、と彼は説明した。家賃三万五千円の貸部屋らしかった。

「じゃあ、街を案内しますよ」
 食事がすむと彼は立ち上がった。唐突で、理由がわからなかった。もし何らかの厚意からだとすれば、悪いなと思った。そう口にすると、「どうせひとりでいても同じなんでね」と彼は独り言をつぶやくように言った。彼のなかで流れは決まっているようだ。街がいいか浜辺がいいかと訊かれ、少しめんどくさく思えてきたもののきっぱり断りもできず、どちらでもよかったが浜とぼくは答えた。それぞれ勘定をすませて店を出ると、おっさんのレンタルバイクに二人乗りし、浜に向かった。

「いいでしょ、ダーナンは」橋を渡りながらおっさんが言った。
 まだ来たばかりなのでとぼくが答えると、彼はダーナンの町並みのよさと人情の厚さを褒め立てた。ぼくが一見した限りでは、町並みはとりたてて魅力的でもなかった。どちらかというとくすんでいて特徴がないように思える。人が親切でやさしいし他とはぜんぜん違うというので、どう親切なのかとぼくは後部シートから訊ねた。
「バックパッカーってさ、なんであんなにいそいでるのかね」彼はぼくの言葉が聞こえなかったように言った。「自分探しするのにね、旅の距離は関係ないね」

 浜辺のそばのがらんとした駐車場にバイクを停めると、汐の香りが漂ってきた。車道と砂浜とのあいだの低い堤防に腰をおろすと、おっさんは語りはじめた。移動だけが旅じゃない。一か所にずっといて深く人と交わるのもいい、いや、そっちの方がよっぽど大切だ。なるほどと思いながらその強い語調に耳を傾けていると、妙にからんでくる。どうやら彼はバックパッカーによほど反感があるらしく、さっきの店での会話でぼくを「移動だけが旅だと思っている」手合いと見なしたらしかった。彼は饒舌で、ぼくがコメントしても聞こえないかのように話をつづけた。
「ベトナムという国はね、金のない者にはやさしいよ。彼らは、金のない者にはちゃんと飯を食わしてくれる。でもね、金のある者は食い物にされるね、確実に。目の前の人間が金を持ってるか持ってないか、そういうのを見抜くことにかけては、彼らはものすごい嗅覚をもってる」

 各国のベトナムからの評価を語った後、自分は音楽、とりわけジャズが好きなのだと彼はつづけた。
「アメリカは金もそうだけど、夢も与えてくれた。ライフスタイルという夢をね。夢を与えられるのはすばらしいよ。日本もそうならなくちゃいけない。でも、日本はシャカイシュギコクだから。ウィークデイにこういうふうに海を眺めていられるのはとてもいいけど、日本では許されないしさ。ベトナムのすばらしいのはここだよ」
「そうですよね。平日の昼間にこうやって海を見ていられるなんて、ぜいたくでいいですねえ」
 砂浜には人影は一つもなかった。沖の方から、大きな波が白い波頭を見せながら次々と打ち寄せ、短い間隔で激しく砕け散っている。

「しかし便利は不便でね」彼は言った。「ダーナンにも波が押し寄せていいものも消えていくだろうね」
「そうでしょうね」とぼくは言った。「でも、思うんですよ。ここにはないライフスタイルへの憧れが、こういうものの――きれいな海岸とか、平日の昼間に海を見ることなんかの――消失につながるんじゃないでしょうか?」

 かつてアメリカのライフスタイルが彼に夢を与えたように、日本も夢を与えられるようにならなくてはと言うが、今ここにはないライフスタイルへの憧れは同時に、今あるものの否定や破壊につながっていく。かつての日本がそうであったように。つまりもし日本がベトナムに夢や影響を与えれば、彼が気に入っているものも壊れていくのではなかろうか。彼の矛盾を論詰するつもりはなく、ただいつの世でも起こりうる事として話したつもりだった。彼はちらりとぼくを見やり、これまでと同様ぼくの発言などなかったようにトピックを替えた。
「ベトナムという国を理解すればね、その尺度はすべての国に通用するよ。日本を理解してもダメ。その尺度は通じない」

 どういうことかと問うと、ベトナムを理解すればフランスにも通用するしアメリカにも通用すると彼は答えた。でも、日本のものをもっていっても誰も相手にしない、と。ベトナムの尺度が何を意味するのか、具体例や体験があるのかと訊ねてみたが、ベトナム人の生き方や価値観は世界に通用するが日本人のそれは通用しないと繰り返すだけだった。それでぼくは疑問をぶつけてみた。
「人間性はどこの国も共通してるんじゃないでしょうか?」
 彼はしばしぼくの顔を無言で見つめ、口を開いた。
「ま、どこでもいいから、好きな国を一つ見つけることだよ。旅に出る人間は皆日本という国を嫌っているから海外に出るんだ」
 そういう場合もあるだろうが皆にあてはまるとは思えず、ぼくも日本を嫌ってここにいるのではなかった。ただ、もう反論はしなかった。

 おっさんは、これまで幾多の職を経て飯場のような場所にいたこともあると語ってから、ぼくに過去の職歴を挙げさせ、キレイなところばかりだと批評した。ホーチミンでのカフェの開業準備はまだ目処が立っていないらしい。店の実務を任せられるような、信用できるパートナーを見つけるのが難しいと彼は漏らした。きちんと仕事するならいくらでも任してやるつもりなのに、あいつらはさぼることと金のことしか頭にない、と。詳しくは訊かなかった。しかし、彼の望むような相手は見つからないんじゃないかという気がした。彼は、信頼のおける人物を求めながら、疑心暗鬼のもやのなかからベトナム人を見ている。相手に誠意を求めながら、彼自身は太いテグスと針につけたエサをただぶらさげているだけだ。たぶんこれまでいろんな苦労を味わってきたのだろう。彼の横顔はそう語っていた。しかしなぜベトナムに新天地を求めているのかは窺い知る由もなかった。

 帰りは渡し船でハン川を渡り、彼の案内でコム屋に向かった。店の前にバイクをとめると、彼は「よう」と手をあげて店員に威勢良く声をかけながら入っていった。
「人を連れてくるときは、よくここで食べるんだよ。値段も安いから。昨日の昼間もここで食べてね。店の主人も顔をおぼえてくれて」

 腰をおろすと、彼は値段を確認せずつぎつぎと注文した。懸念が頭をかすめた。これまでよほど良心的な店でない限り、食後に値段を訊ねるとほぼ間違いなく高く請求された。けれどかなり馴染みのような彼の素振りにそんなことを口にするのも大人気なく、ぼくも同じものを頼んだ。スープ、コム、追加の別のおかず、缶ジュース。ずいぶんぜいたくに思えるのは、ぼくが貧乏旅行の感覚に戻ったからだろう。別料金を加算される紙おしぼりでおっさんが顔を拭うと、ふだんは使わないようにしているぼくも袋を破って手を拭いた。

 食後、おっさんは店員が持ってきたまだ蒼いバナナを房からもぎとった。苦しいほどの満腹で店を出る段になって、彼がいくらかと訊ね、店主が答えた。その額は、内容からすると安いどころか逆に割増しされたのだろうと思われた。

 おっさんがぼくを見て値段を翻訳したとき、その態度の意味が飲み込めなかった。入店時の様子からすると彼が勘定を持つつもりかもしれないと、ぼくは自分の分を払うべくポケットから財布を取り出していた。しかしそんなぼくをおっさんは爪楊枝をくわえて見やっている。
「そんな顔するなよ。心配しなくても、夜ここの何倍もするところでうまい飯食わせてやるからさ」
 その言葉でやっと、ぼくに支払いを促しているのだとわかった。

 いっしょに市場に向かった。お世話になった知り合いの息子がラジカセをほしがっているので、プレゼントしたいのだという。店先に並んだ中古ラジカセの品定めをするおっさんの後ろからぼくが声をかけると、彼は「コンコン」と強く制した。朝の食堂でも彼は物乞いを同じ言い方で追い払っていたが、それは「ノーノー」という意味だった。交渉前に日本人とわかったら話にならないからだと後で説明された。

 おっさんの値踏みは長引き、横で黙って突っ立っていることに疲れて、ぼくは軒先でぼんやりと往来を眺めていた。突然の鋭い怒声に振り返ると、向かいの商店の売り子が、同い年くらいの物乞いの女を追い払っていた。店の前で座るなと言っているようだ。衣服の汚れ擦り切れた物乞いの女は、疲労困憊の様子ながら、なぜか意地になってそこに座ろうとしていた。すると最初は頑として許さなかった売り子が態度をくつがえし、小さな椅子をさしだした。ところが、表情をゆるませた物乞いの女が腰をおろした瞬間、椅子は引き抜かれ、後ろにひっくり返った。まわりに沸き起こった爆笑のなかで物乞いは目に強い怒りを浮かべて体を起こし、売り子を追いかけはじめた。売り子は腹を抱えて笑いながら、なおも嘲罵し、余裕ありげに逃げている。そのおどけた姿にまた哄笑が起こった。なんてひどいことを……。こうやって、上から下へ、強者から弱者へと、延々と引き継がれていくのだ。

 帰りのバイクで、おっさんは二万ドン(約二百円)で中古のラジカセを手に入れたと得意げに語った。ジャンケンで勝負して三回勝ったら半額にしてくれという話を店員に持ちかけ、粘り勝ちしたのだという。

 連れられた彼のツインの部屋は、殺風景だが熱湯と水の入ったポットが置かれていた。窓の外の手すりに結われたロープに、おっさんのブリーフと靴下とTシャツが揺れている。雨滴がぽつぽつと窓に線を引いた。水割りを飲むかと訊かれて辞したぼくの言葉が聞こえなかったかのように、目の前にグラスが置かれた。酒を飲みたい気分ではなく、少ししか口をつけなかった。
「酒は飲まないの?」
「そんなこともないんですけど、旅行に来てからあんまりおいしいと思わなくなって……」

 またしばらくおっさんの話を静聴した。黙っている分にはいいが、ぼくがコメントするたび、氷山が音をたてて割れるようにぼくたちのあいだに溝がひろがっていくのがわかった。独演会を録音するカセットテープのような従順さだけが求められているのかもしれない。若い人と話をするのが好きというのはそういうことなのだろうか。そう思いながらも、ぼくはときおり率直な考えを口にした。しかし共通言語として彼に届いてさえないようだった。教師の女の子が体調の悪さを口実に(ぼくの邪推だけれど)彼の案内を断ったのもわかる気がした。

 外のどんよりとした天気のように会話のトーンはしりすぼみで、ぼくのホテルまでバイクで送ってもらった。夕食にまた迎えに行くとおっさんは言ったが、たぶん来ないのではという気がした。

 おっさんは彼が装っていたほどには寛大ではなかった。店での馴染みの態度も、ひとりで演じていただけで店員たちはそう思っていなかっただろう。金のない人間(すなわち彼のことだろうか)にベトナム人はやさしいと評価しながら、彼は物乞いたちのひとりたりとも相手にせず冷淡に追っ払っていた。そして、おっさんが口にした自分探しという言葉を思い返した。彼は当然のように、ぼくもそれをしているのだと見なしていた。けれども旅に出たとき、ぼくは自分探しなど放棄したつもりだった。「ほんとうの自分」だとか「あるべき自分」だとか、さも決定版があるかのような言説が日本では氾濫し、それらを追い求めることを是とする風潮には違和感しかおぼえない。自分というイメージ自体が虚像なのだ。自分とは固定的なものではなく、絶えず変化しているのだから。ぼくは何者かになるという自己実現の過程にいるのでもない。それでも、何かに拘泥し、もがいていることは確かだった。それは人から見れば自分探しなのかもしれない。ただ、相対論にたどりつく思考はもうどうでもよかった。

 一時間ほど昼寝をし、本を読みながら待ったが、やはりおっさんは姿を見せなかった。互いにその方がよかったのだろう。

 顔のかぶれは拡がりの兆しを見せ、余計な荷物をしょいこんでいるようだった。食事に出て、パンを頬張りながら通りをぶらぶらと流し、屋台で鶏粥を食べ、フルーツシェイクを飲んだ。ぼくは薄暗い路地の向こうと漆黒の空に視線を投げかけ、何を求めているのかもわからずに歩きつづけた。無性に誰かに話しかけたかった。しかし、胸のうちで誰かに宛てて繰り返された言葉は、誰に届くでもなく、どこかに刻まれるでもなく、夜の深淵にこだまするばかりだった。