欺瞞と微笑み

 床を掃く音がした。目をあけると、ほうきを手にした従業員の女の子だった。腕時計を見ると六時すぎ。こんな早くに掃除するのかとぼんやり思いながら、ぼくはまた寝入っていた。

 ふたたび目をさますと外ではにぎやかな声が飛び交っていた。窓の外の空は明るいが陽ざしはきつくなく、空気は透明だ。部屋には、オーストリアかドイツかららしい男が三人と、ヨーロッパのどこかと日本人の男が一人ずついたが、皆起きそうな気配はなかった。

 宿の周辺をひとまわりして戻った。ハヤシさんにドーナツを差し入れると体調も回復した様子で、ぼくと同じドミの男と近くの旅行代理店に出かけるという。彼女はすでにインド行きの予定を立て、あとは安チケットを探すだけだ。一方、ぼくはまずここからの行き先を決める必要がある。同行した店先で、どこでもいいからと格安チケットを訊ねると中東方面を勧められた。けれどピンとこないのでやめておいた。

 代理店を出てカフェに入ると、隣席にきた日本人の学生が、南アフリカのヨハネスブルクで襲われ身ぐるみはがされたと話しはじめた。日本大使館でパスポートを再発行してもらい、親からの送金でやっと戻ってこれたという。強殺される場合も少なくないらしく、命があっただけラッキーだったと彼は苦笑した。代理店の壁に貼られていた、日本人の行方不明者の顔写真が思い出された。ただ、用心が必要だと再認識しても、今いる場所への違和感も強まるばかりだった。せっかくタイに来て、どうして観光客しかいない店に入っているのか。英語のメニューには西洋料理しかなく、店内には洋楽が流れ、ハリウッド映画がビデオ上映されている。湧きおこるのは昨晩と同じ思いだった。

 あれからタクシーを降りてすぐ、日本人の女の子に助けを求められた。しつこいタイ人につきまとわれているからいっしょさせてもらえないかという。それでハヤシさんが決めていたゲストハウスに行き、彼女はシングル、ぼくは相部屋ドミトリーにチェックインした後、ハヤシさんを残してその女の子と夕飯に外に出た。彼女が案内してくれたのはレストラン&バーで、クーラーの効いた店内に洋楽が流れていた。こういう場所からは当分離れようと思っていたのだが、とタクシーのときのように思った。彼女は以前ワーホリで滞在したオーストラリアに友人を訪ね、これから香港返還を見に行くところなのだという。前日知り合ったタイ人の男と今日も会ったまではよかったのだけれど、食事をおごられたりするうちに男の態度がしつこくなり、怖くなって逃げたんです、と彼女は言った。男と鉢合わせしないか怯える彼女をホテルまで送ると、そこは一泊六五〇バーツの豪華な部屋だった。ぼくのドミトリーとは一〇倍以上料金が違うけれど、自分には必要のない贅沢さでしかなかった……。

 バンランプー市場のあたりを歩いているうちに皆とはぐれ、そのままひとりでぶらぶらすることにした。角の小さなデパートの入口で階段に座り、行き先を思案していると、二人の女の子に声をかけられた。自分たちは中国人で旅行中なのだとひとりが流暢な英語で言った。自分ははタイ語を勉強していて二、三度ここに来たこともあり、もうひとりは今回がはじめてでタイ語は下手だという。

 中国のどこから来たのか訊ねると、彼女は田舎からだと答え、町からだいぶ離れたところだと言い添えた。そして、これから観光に行くのだがよかったらいっしょにどうかとぼくを誘った。小さな船を借りて郊外に行くつもりらしかった。バンコクの部分をちぎり取ったガイドブックの地図を示して場所を訊くと、この外だという。一時間半ほど船に乗って戻ってくるらしい。

 よくしゃべる方は丸フレームのサングラスにジーンズ。もう片方はおとなしく言葉少なで、キュロットのような半ズボンをはき、首にベビーパウダーを派手に塗りたくっていた。どちらもぼくのイメージの典型的な中国人という容姿でもないけれど、あまり垢抜けない雰囲気にどことなく安心感があった。

 宿泊先を訊かれ、近くだとぼくは答えた。彼女たちは中華街のホテルだという。彼女の流暢な英語にスムーズな言葉が返せない。ぼくはいちいち頭のなかで英文法を組み立て、正しい言い回しか考えながら言葉をつないだ。そしてもう一方の頭でどうしようかと思案した。これからどこかに行くあてはなかった。ここらへんをぶらぶらして、ただ眺めているなんて面白くない。せっかくだから乗ってみるのもいいかもしれない。ふたりとも小柄だし、用心すれば、腕力で脅されるようなこともないだろう。

 昨日のことが頭にちらついていた。あの中華航空勤務の女の子は、ぼくたちのタクシーを見送りながら何を思っただろう。彼女のシャイな態度が脳裏によみがえった。昨日みたいに頭から疑ってかかっては出会いを狭めてしまうし、何よりつまらない。

 それで、行ってみることにした。いっしょにタクシーを降りて船着き場まで歩くと、グラサンの女の子が小舟の船頭に声をかけた。エンジン付きの細長い舟は、ゆっくりと上流へさかのぼった。川沿いに大小の寺があらわれるたび、彼女たちは手を合わせて拝み、ぼくにも促した。一度クルーズしたことがあるというグラサンの女の子がなめらかな口調で解説してくれた。タイの国民は大半が仏教徒で信仰心が篤く、皆たくさんのお布施をするの。日本はどう? 会話で精一杯のぼくには、景色を堪能する余裕はなかった。さりげない風を装って、自分が話を理解しているのだと示そうとした。

 ベビーパウダーの女の子はほとんどしゃべらず、伏し目がちで何やら元気がなかった。会話にも加わらない。せっかく今回はじめて中国から旅行に来たというのに楽しくないのだろうかとぼくはいぶかった。

 もとの船着場に戻ると、グラサンの子がひとり四五〇〇バーツだと言った。財布を覗いて理解できず、最初は桁を聞き間違えたのかと思った。そこには八〇〇バーツほどしかなかった。それを示すと、残りは立て替えておくからという。ぼくは愕然としながら、グラサンからベビーパウダーにぼくの金が渡り、船頭に手渡される様子を見やった。額の大きさより、持ち合わせがなかったことに狼狽していたぼくに、どうするのかとグラサンが詰問した。
「ごめん」
「困るの」
「今、持ってないんです」
「ちゃんと払ってよ。私たちが船に乗った代金でしょ。あなただってクルーズを楽しんだじゃない。なのに払えないなんて言われても困るわ」
「もちろん払いますよ」とぼくはたどたどしい英語で言った。「でも今は持ってないから、ホテルに取りに行って――」
「それでは困るの」とグラサンはさえぎった。「だって私たち、このあと友達と待ち合わせの約束があるから。クレジットカード持ってるんでしょ? じゃあ、キャッシュディスペンサーまで行って、そこでおろせばいいわ」

 タクシーに乗りましょうと言って彼女は歩きはじめた。

 結論を言うと、もちろんぼくはまんまと彼女たちの術中にはまったのだ。長期旅行者のあいだではよく知られた手口らしかった。引っかかるやつはバカだというくらいの。もし知らなくとも、少し旅慣れた者なら誘われた時点でピンとくるだろう。話に乗ったとしても、ちょっと注意深ければクルーズといっても観光ボートではなく地元民用の水上タクシーだと気づく。さらに、そんな額を請求されれば猛然と抗議するはずだ。しかし、ぼくはこの期に及んでまるで何もわかっていなかった。格好のカモ。

「大丈夫?」横を歩くベビーパウダーがぼくの顔を覗き込んで気遣うように言った。
「大丈夫」ぼくは前を歩くグラサンの足元を見ながら答えた。

 申し訳なさを引きずりながら、ぼくはようやくその金額自体に意識をうつしつつあった。しかし、回路の壊れた機械が延々と同じ工程を反復するかのように、驚きがただぐるぐると頭のなかをまわっていた。おかしいと頭を働かす冷静さも、何らかの行動をクッションに入れる余裕もなく。

 タクシーを降り、金をおろして渡した。釣りがないというグラサンに、ぼくはいいよと虚勢を張った。これからの行き先を訊かれ、ワット・ポーととっさに答えた。ここからはタクシーで行く必要があるくらい遠いと彼女たちは言い、タクシーをつかまえて先にぼくを乗せようとした。けれども待ち合わせがあるんだろうと彼女たちに譲った。連絡先を聞かれ、また遊びに来てくれとゲストハウスの電話番号まで渡しながら、ぼくは彼女たちを見送ったのだった。

 ワット・ポーでタクシーを降り、半ば茫然としながらバーツを日本円に換算しなおした。約二万円。それは計算ミスでも物価感覚の違いでもなかった。ようやくぼくは自分の遭遇した出来事を認識し、受け容れつつあった。

 帰路は足元を見られそうなトゥクトゥクは使わず、強い日ざしのなかを宿まで歩いた。途中で何人かのタイ人に道を訊ねたり声をかけられたりしながら、忘却の彼方だった英語への苦手意識が増幅されるばかりだった。

 夜になって、宿の一階ではじまった従業員と客たちの宴会に誘われ、ひんやりとした石の床に車座になった。近所の陽気な青年と仲良くなって、煽られて怪しい舌触りのウィスキーを何杯も一気飲みした。日本で同じような状況で感じる、集団への同化を強要されるかのような窮屈さや不快さはない。ただ、昼間の事にぜんぜんこりていないなとぼくは思った。

 にぎやかな宴が終わると、かなりの酔いを自覚しながらふらふらと階段をあがった。明かりの消されたドミに入り、静かに二段ベッドの上にのぼる。ぬるくなったボトルの水を飲んで横になり、大きく息を吐きながら頭の後ろで手を組んだ。そしてしばらく、窓の外でチカチカと点灯するネオンに視線を投げかけていた。

 あれだけ用心していたというのに、腹にまいたセーフティーベルトや財布をつなげたリングチェーンといった小細工はまるで役に立たなかった。強奪などではなく、自ら金庫の鍵をあけ、さしだしたのだ。それなのに自分のなかに悔しさや憤りのないことをぼくは何か道理にあわない、不可思議なことのように見つめていた。

 ベビーパウダーの女の子の暗い表情は、もしかしたら罪悪感のあらわれだったのだろうか。彼女が一度だけ自分から話しかけてきたことがあった。唐突にぼくのことをハンサムだなどと言い、「ガールフレンドがたくさんいるのでしょう?」と尋ね、ぼくが否定しても同じ言葉を繰り返したのだった。意図がわからずにぼくが曖昧に笑うと彼女は少しはにかんで目を伏せた。けれどじき暗い顔に戻った。あれはシナリオだったのだろうか。たとえばぼくの警戒心を弛緩させようというような。でもその必要はなかった。すでにぼくの感覚はバランスを崩していたのだから。

 時刻は〇時半をまわり、ドミの皆はすでに寝静まっている。ぼくは外から射し込むほのかな明かりで日記をつけはじめた。ほとんど手元は見えなかった。空港まで見送りにきてくれた親友にもらった携帯ライトのことを思い出し、かばんから出してノートを照らした。しかしこんな使い方ではすぐ電池が消耗してしまうだろうとスイッチを切った。するとまたほとんど見えなくなり、横になって天井を向いた。外のカフェのBGMが漏れ聞こえている。そこにバイクや車のエンジンや近くで回転する扇風機の音が重なって、太鼓をたたくような低い響きになって耳元に届く。それは、まるで空から鈍く射してくる光のような音だった。

 ところどころほつれかけた網戸の向こうのベランダには、旅行者たちの洗濯物がロープに無造作につりさげられ、黒い影となって風に揺れている。心地よい風だった。この風の感触は以前に覚えがある。どこでこの風を感じていたのだろう……。そんなことを思いながら、なぜなのか深い安らぎがあった。ふと、昼間見かけた小さな女の子のはにかんだ表情が思い出された。あんなにも繊細に内面とつながっている表情をひさしぶりに目にした気がした。ここは微笑みの国なのだという。たしかにそうかもしれない。やわらかな微笑みを多くの人が浮かべている。

 ひとりで旅に出て、今、異国の地にいるのだというはっきりとした実感があった。心臓の鼓動が立体的な感触をともなって体の先まで力強く伝わっていく。ぼくは胸に手をあて、その規則正しい響きをじっと感じていた。