不気味な男

 昆明から四台のバスを乗り継ぎ、さらに馬車を使って瀘西の阿瀘古洞にたどり着いた。地下の洞窟におり、船頭が竿で進路をとるボートで湖を巡った。安酒場のような派手な蛍光管に照らし出された空間は、地底湖という単語の響きから連想されるロマンティックさとは程遠かった。

 遅い晩飯をすませて宿にもどると、部屋の前でにうつろな目をした男が棒立ちしていた。ベッドで寝転んでいるとその男が入ってきて、部屋を横切って隣室に入っていった。時をおかず、ブーッと飲み物を噴き出して激しくむせる声が聞こえた。ドミトリーとはいえ、こんな間取りは予期していなかった。ぼくの部屋は三間続きのいちばん手前で、奥に二間あり、廊下への出口はここだけらしい。だから見ず知らずの宿泊客が廊下と彼らの部屋を行き来するたびにぼくのベッドの脇を横切っていく。先日は入口側の新婚カップルの邪魔をしてしまったけれど、今回は逆の立場だ。

 さっきの男がまた入ってきた。ところが廊下には出ず、部屋のなかで突っ立ってみかんをむしゃむしゃ食べ、皮を床に投げ捨てはじめた。この国で食堂や旅社の床に食べ滓やごみを捨てることが問題なかろうと、ここではやってほしくない。

 何か言ったので声をかけられたのかとぼくが反応しても男は無言で、自分は日本人なのだと挨拶しても黙ってぼくに視線を向けている。ふらふらと近づいてきたので、会話がだめなら筆談をとぼくは紙をさしだした。男はその紙をしばし見つめ、出し抜けにビリビリと細かくちぎって床に放った。不意をくらって呆気にとられたが、ぼくはゴミ箱を指し「あっちに捨てろよ」と日本語で言った。すると男が唐突に話しだした。ぼくが「ティンプードンわからない」と返しても意に介さず一方的にしゃべりつづけ、困ったぼくが開いたノートに曲線をぐねぐねと書きつけたあげく、床に払い落とした。

 最初こそ男の不気味な行動を慎重に推し量っていたものの腹が立ってきて、またペラペラとしゃべりはじめた相手にぼくは語気を強めた。
「だから、ティンプードンやねんって」
 それでも話しやまない男にぼくは声を荒げた。
「うるさいんじゃ、アホ! わからんって言ってるやろが」
 すると男は一瞬黙った後に口を開いた。「ティンプードン」

 追い払うと近くからは離れたものの、男は部屋に居座った。ときどき追っ払ってみるも、反対側のベッドに腰かけて酔眼でぼくを見据えている。男は自室からペプシのボトルを取ってきて、口にふくんで床にペッと吐き出した。いい加減頭にきたが、抑えた。こじらせると今夜安眠できなくなる。各室にはベッドが数床あり、隣室はたぶん二人だがその奥は不明だった。部屋が区切られている分多少はプライバシーが保たれる反面、続き部屋の男たちの顔さえわからない状況では、出入りの物音でかえって落ち着いて眠れない。大勢の他人と同じ部屋にいる方がよほどましだった。

 ぼくが廊下に出ると男もいっしょに出てきた。仕方なく部屋に戻ると男がさらについてくるに及んで、単なる酔っ払いとは片付けられなくなった。変質者なのか、それとも日本人に怨恨でも? さすがに薄気味悪く、小姐シャオジェに何とかしてもらおうと階下におりたがあいにく不在だ。外に行こうにも、二時間前でさえおおかたの店が閉まり通りは暗かったから、二三時をすぎた今、勝手知らない町をひとりうろつくには遅すぎる。

 しばらくして小姐が戻ってきたもののうまく説明できず、ドミの数が男女一つずつだと知って部屋に戻ると、男はまだそこにいた。妙案は浮かばない。切れたフリで無理やり追っ払うか、様子を見るか。いや、今晩だけだ。夜中に首でも絞められたらたまらない。知り合いか誰かの声が聞こえたらしく、男は廊下に出て、どこかにいるらしいその人物をしきりに呼んだ。男の姿が消えた隙に部屋を出てしばらくして戻ると、男は隣室で大音量でテレビを見ていた。幸いにも、夜中に首は絞められなかった。