告白

 ホーチミンから戻ったトゥーンの家に、ふたりで昼御飯に招かれていた。ところが直前になって、彼女は駄々っ子のように自分は行かないと言い出し、しようがなく、ひとりでトゥーンの家に向かった。炎天下を道に迷いうろうろしていると、自転車で様子を見に来たホーンに拾われた。そこは、一メートルほどの幅しかない生活路の奥の小さな家だった。

 玄関を入って目の前の三畳ほどの居間の床にござをひき、トゥーンのお父さんが作ってくれた昼食をごちそうになった。お母さんは数年前に病気で亡くなったと、あとで墓参りに連れられたときに知った。トゥーンのお父さんは引退前は理容師で、多少の英語がわかるようだった。食後、お父さんが席をはずしてからホーチミンでの検診結果を訊ねると、結局お父さん自身の判断で何もしなかったのだという。高い費用を無理して払って検査しても、手術や治療にはさらにカネがかかるから、と。だから体調不良の原因はわからずじまいで、悪化しないことを願ってごまかしながらやっていくしかない。

 トゥーンが戸棚から封筒と葉書の束を取り出した。今までシクロの仕事で知り合った旅行者からのものだという。その量にぼくが感心すると、トゥーンがなかのひとつをつまんだ。
「でもよくない手紙もあって、これはよくない男なんだ。アメリカ人なんだけど。なんで返事をくれないのかって何回か言ってくるけど、返事は書かないよ」

 彼が開いた便箋には、走り書きのような字が並んでいる。トゥーンとホーンは目をあわせて意味ありげに笑った。次にトゥーンは日本の女の子からの手紙を読むかと訊き、ぼくが首を横に振ると彼女との馴れ初めを語った。

 彼らは一年ほど前に彼女が旅行に来たときに知り合った。彼は仕事ではなく数日この地を案内してまわり、たくさんの話をし、彼女は彼の人柄を幾度も誉めた。家に招いて食事もした。トゥーンが取り出した写真はそのときのもので、日本人の女の子と、笑顔で彼女の肩に腕を回す彼が映っていた。彼女はカメラに向かいながら、恥ずかしがらないでそうするよう彼に促したのだという。かわいい女の子だろうというので、ぼくはうなずいた。それまで女の子と手をつないだこともなかった彼にとって、強烈で、深く心に残る出来事だったにちがいない。控えめに、しかし確信をもった口調で、すばらしい女性なんだとトゥーンは言った。そして彼女からの手紙をさしだし、読んでほしいと言ってきかなかった。そこには彼女の日本での生活が記されていた。単調な反復仕事に追われる忙しい毎日、思いやりのない人間関係。そんな生活に疲れ幻滅していて、ベトナムでの楽しかった日々が思い出されること、トゥーンにとても感謝していること……。

 彼らは何通かの手紙をやりとりしたが、そのうち彼女からの連絡が途絶えた。近況を問う便りを出しても返信はなかった。彼女にボーイフレンドができたのか、結婚したのか、せめて幸せにしているのかだけでも知りたい、だから彼女の近況を調べてもらえないかとトゥーンは言った。便箋には京都の住所が記されていた。ぼくの家と遠いのかと訊ねられ、遠くはないと答えると彼は言った。
「じゃあ、日本に帰ったら彼女と会ってもらえない?」
 返事を渋るぼくに、彼女を気に入ったらガールフレンドにしたらいいとトゥーンは軽く笑ってつけくわえた。彼の本心を汲みながら、ぼくは弱く笑い返した。トゥーンは彼女にたいする望み――自分とのつながり――を捨てていないのだ。

 夕方、海岸のカメラマンの遣いの少年が写真をホテルに届けに来た。一昨日に巨岩の上で撮ったやつだ。トゥーンとホーンが岩の上で紳士服チェーンの折り込みチラシのようなポーズをとったもの、彼らがひとりずつ写ったもの、彼らと彼女とのもの、ぼくと彼女とのもの、全員でのもの。計五枚。現像が一枚ずつしかなかったので、トゥーンたちと自分の分はあとで焼き増しし、彼女に先にあげることにした。すると、トゥーンらとのものはいらない、ぼくと彼女の写った二枚だけほしいという。ネガもくれというので理由を訊くと、「どうせカワイさんは写真いらないでしょ」と決めつけるように言うのでカチンと来た。
「何でおれはいらんねん。自分だけがよかったらええんか? まだトゥーンらの分も焼き増ししてへんのに」
 そうならば自分の分もいらないだろうと、彼女の手から写真を取り上げた。

 気まずい雰囲気のなか、ひとりで浜辺に出かけた。彼女とはもう話もしたくなかった。しばらく泳ぎ砂浜をジョギングすると多少はすっきりとして、晩はいっしょに鍋を食べに出た。けれどやはり話すことはなかった。その後トゥーンたちとまた会う約束で、彼女もいちおう誘ってみたけれど、来ようとはしなかった。

 浜辺に座って三人で他愛もない話をしてから、ぼくは迷いながら話があると切り出した。彼らがしきりに彼女の具合を気に掛け、さらに京都の女の子との話を聞くに及んで、曖昧なままにしておいてはだめだと強く感じていた。彼らは、直接的な見返りを期待しているわけではないにせよ、偶像アイドルにでも接するように彼女を遇している。ところが当の彼女はそれを当然のように食い散らかしながら、まともにつきあう気などないのだ。トゥーンたちが示すちょっとしたやさしさや親切も、彼女のなかのブラックホールに吸い込まれたまま、感謝の言葉や態度が返されることはなかった。

 ホーンの部屋に場所を移して実際に話をはじめると、それは難しい作業だった。慣れない英語だと言い回しが直接的になり、かといって婉曲な表現ではさっぱり伝わらない。
「彼女のことをあんまり理想的に思わへんほうがいいよ」とぼくは言葉を替えて言った。「君らは彼女のことを何かものすごくいいように思ってるみたいやけど」
「どういうこと?」とトゥーンが言った。
「彼女は君らが思い描いてるような子やない。君らが彼女に何をしようが、彼女は評価してないし、何とも思ってない」
「どういうことかわからない」とまたトゥーンが言った。

 病院に連れていっても彼女は感謝してないし、カフェに連れていっても楽しく感じていない。だから、彼女のことをいい女性だと思い描かないほうがいい、とぼくは言った。今日の昼食に彼女が行かなかったのも、体調が悪いとぼくは言ったけれど、それは彼女が行きたくなかっただけなのだ。

 ぽかんとするホーンにトゥーンが訳した。ふたりが誤解しないよう、同じ内容を表現をかえて言った。やがて彼らは押し黙り、わかったとトゥーンが口を開いた
「おれらが何をしても、あいつは馬鹿にしてただけなんだ」ホーンが呆れたように舌打ちした。「ひどい女だ」
 ぼくが否定してもホーンは頭にきた様子でまくしたて、今度は逆にその熱を冷やさねばならなかった。
「いや、ちがうねん。彼女は君らのことを馬鹿にしてるわけやないよ。それに、おれは別に彼女をひどい女やって言いいたいわけやなくて。ただ彼女は、君らが親切にしてあげても気がつかへんねん。ありがたいとは思ってない」

 ホーンは頭のなかで考えがぐるぐるとまわっているような目つきをして、また舌打ちした。
「どう言ったらええんか」とぼくは言い、しばらく沈黙した。「前に花の話をしたけど、おぼえてるかな? きれいな花があっても、気がつかへんかったらそれはないのと同じやって。実際、その人には花はないのといっしょやねん。今の彼女もそうやと思う。自分が今ほしいものは見えるけど、そうやないもんは見えてへん」
「ああ」トゥーンがうなずいた。「あの話はそういう意味だったのか」
「彼女だって、悪いところばかりじゃないで。いいところもあるよ。ただ彼女はまだ気がつかへんだけやねん。自分が何を与えられてるかも、何を大切にすべきかということも。でもアホな子やないから、いつかはわかると思う」

 それでもホーンは感情的になって憤慨するばかりだった。彼には、自分が都合のいいイメージを相手に思い重ねている自覚はなかっただろう。だからこそ裏切られたという思いとともに強い怒りをおぼえていた。でも、経済的に豊かな国からやってきたかわいらしい女の子と接して、楽しさや昂ぶりを感じるのは無理もない。ではぼくはどうなんだろう。ぼくも彼女に期待を投影していたのだろうか。少なくとも、こうあってほしいと思いながらいらぬおせっかいをしてきたのではないか。それは執着であり、または幻想というのかもしれない。ただ、いつかそんな執着は破れ、幻想も崩れていく。そうはいっても、ぼくの話は唐突すぎたのかもしれない。彼らに少なくはないショックを与えたと思うと、適当な方便のまますませればよかったのかもしれない。ぼくはパンドラの箱をこじあけてしまったのだろうか。そんな苦い感触が後に残った。

 強い光に照らされた表通りをぼくはテラスからぼんやりと眺めていた。空は雲一つなく晴れ渡っている。ここではすばらしい天候に恵まれていた。まぶしい光と、木々の葉をそよがせる爽やかな風。雨はここに来てからたった一度短く降っただけだ。この静けさの中では、表を通りすぎるバイク一台一台のエンジン音が耳にくっきりと飛び込んでくる。ホテルの裏手から、ベトナムの歌謡曲が流れていた。彼女は明日発つことになった。ぼくは明後日にと考えていた。燦々さんさんと降りそそぐ陽光に、通り沿いの家々のオレンジや青色の外壁が鮮やかに照り映えている。けれど、ぼくにとってすでにそれらは色褪せて感じられた。青く乾いた空を目にしながら、曇天と小雨続きだったダラットでの出来事が懐かしく思い出された。

 食事のついでに写真屋で焼き増しを頼んだ。昨日は、彼女の分なんて放っておこうと思っていた。脚も治りつつあり、役割は充分果たしたのだから、と。しかし頭に去来するものを否定できなかった。ぼくは、ほんとうに心から彼女と接していたのだろうか? 彼女への特別な感情はもうなかった。けれど、少なくとも思いやりを持っていたのか。そう自問すると疑わしかった。彼女にまわりの人々への愛情がなかったように、ぼくにだってなかった。この八日間、表面的な世話はやいてきたが、それも成り行き上の義務感や一時の人助け的な念慮にとらわれていただけではないか。そして今それが薄れたからといってふるまいを変えている。つまり、そんなぼくも自己中心的な動機で動いていただけなのだろう。彼女がまわりに期待していたように、ぼくも彼女に期待していたのだ。

 夕方、海でひと泳ぎして写真屋に寄った。部屋に戻ると、彼女はシャワーから出たところらしくベッドに座って髪をといていた。ぼくが写真を手渡すと、彼女はぼくに背を向けたまま無言でうつむいていた。