結論なんて――組織、社会、システム、個人、欲望

 郵電局から実家に国際電話をかけると、日曜にもかかわらず父母とも不在で、祖母が出てきて少々噛み合わない会話になった。話がもつれないよう、ぼくは、中国を保険に入れるよう父に伝えてほしいとだけ頼んだ。出発前に旅行保険に加入してきたものの、申込用紙の渡航先欄にでたらめに記入した思いつく限りの国のなかに、中国が入っていなかったのだ。「風邪声やないの?」と祖母に問われ、自分の体調を見抜かれたようで、あわてて話をそらして電話を切った。

 発熱がつづいて一週間になっていた。解熱剤も効かず、原因不明で嫌な感じだった。肝炎を疑ったものの、それらしき症状はない。ただ腹が妙に張った。二、三日宿のなかで安静にしていたものの、変化はなかった。体温は三七℃から三八℃台をふらふらと動いてときに三九℃まであがるが、その変動に意味があるようには思えなかった。中途半端な体調をどう判断し、今後どうすべきなのか。まとまらない考えに次の行動を決断できないまま横臥しているのがもどかしかった。そんななか、入れ替わっていく旅行者たちとの会話に気がまぎれた。パキスタンの宿で夜に天井から縄を伝って男たちが降りてくるといった、自らの恥部をさらすのでも誰かの弱みを突くものでもない、気の張らない旅話だ。外から帰ってきたナナさんたちが栄養ドリンクや果物を差し入れてくれると、体調はしだいに快方に向かっているような気もしてくるのだった。

 その朝、ドミの旅行者はまだ全員眠っていた。曙光が空全体に満ちていたが、東向かいの建物にさえぎられて室内に強い光は射し込んでいない。夜の色を脱した空気の澄んだ色調がすがすがしかった。体の具合はよく、体温をはかると平熱だった。昨日保険会社に連絡しなくてよかったと思った。
 朝昼と健康的な食事をとると体調はほぼ元に戻ったかのようだった。しかし午後に洗濯をし、四、五日ぶりのシャワーを浴びるとまたおかしくなった。中秋節の夜、宿の食堂で夕食をとりながら、ぼくはようやく明日保険会社に連絡するつもりだった。日本語の通じる病院は北京や上海といった大都市以外ではないらしかった。少なくとも英語でないと細かな意思疎通はできないだろうから、検査するにしてもある程度大きな町に移動する必要があるだろう。旅が中断しようと、的確な所見を得て必要な処置を見定めたかった。その先、もし日本に帰ることになるとしても。

 帰国の可能性がちらつきはじめると、ぼくはナナさんに訊ねた。日本に戻ったらどうするつもりなのか、と。東京に住むのか、写真をどう発表するのか。しかし、それは彼にとってもまだ結論の出しようのない事柄だった。

 もやもやした思いが離れなかった。「いかに生きるか」と「いかに稼ぐか」が、自分のなかの深い部分で相容れない気がしてならない。単にマーケティング上の「あるべき」と「現状」の差異ではなく。勝手気ままに生きたいわけでも、楽をしたいわけでも、贅沢をしたいわけでもなかった。ただ、恐怖心に追い立てられた行動を出発地点とするなら、今までと同じだ。しかし日本に帰れば、もちろん実際的な選択肢のなかで決断を迫られるだろう。そこにはまた同じ葛藤しか存在しないのだろうか……。これまでも他人の断片的な意見や経験談をつなぎあわせたところで参考にはならなかった。いや、そこに明瞭な回答などあるはずもないとわかっていた。そんな感触だけはやはり今夜も同じだった。

 そもそもの前にするのか。ベトナムのニャチャンのドミで、二十歳とはとうてい思えないほど腹のたるんだスイス人から、帰国までに決めればいいさと慰められた。あれから二か月、進捗はない。でも、それはおそらく決断するとき、つまり行動するときにしかわからない。それでいいような気がした。今は、何をやるかなんてそれほど重要なことではないと思う。旅によって過去の基盤からはなれ、おぼろげに垣間見えたものがある。それは、結論なんてなくてもいいということだった。道なんてなくてもいい。形やスタイルにとらわれるな、生の本質を見定めろ。そんなかすかな声が聞こえた。