流転する存在の重さ

 朝は薄い雲に被われていた空がいつの間にか晴れ渡っていた。ここしばらく雨が多かったから、ぼくは反射的に洗濯気分になって洗面所のバケツに洗濯物と洗剤を入れた。陽光を浴びながらバシャバシャやっていると、洗濯がこんなに気持ちいいことだったんだなとはじめてその効用を発見したような気になった。

 部屋の外の廊下は広い中庭をぐるっと取り囲んでいる。手すりにもたれてぼんやりたたずんでいると、係の女の子がやってきた。頬に白い線を一本引いている。彼女はタイ族らしかった。ぼくが笑いかけると彼女も笑顔でぼくの隣に立ち、手すりを触ってアツイという顔をした。少し強すぎるほどの、けれど心地良い日ざしだった。話しかけてきたので「わからへん」と日本語で答えると、彼女はまた何か言った。「ティンプードンわからない」と首を横に振っても、理解したのかどうか、少しも気にかけない調子でまたペラペラとしゃべりだす。ぼくがノートを取りに部屋に入ると彼女もついてきた。テーブルの前に座り、彼女が漢字を書きはじめた。

 ――あなたは中国語は話せるの、話せないの? 

 ぼくは《話せない》を丸で囲んだ。彼女は今十九歳で、名前は李生仙リーシャンセン。昨日会ったばかりだというのにまるで警戒心がないのか、ぼくの隣に距離をあけず座っている。ぼくが二十九歳だと書くと、私とは十歳離れているねと彼女。その他愛のなさにぼくは笑った。よく耳にする曲をぼくが口笛で吹くと、それを知ってるのねという顔をした。曲名と歌手名を教えてほしいと自分流に書いてみたのだけれど、どうも伝わらない。

 ――あなた歌手なの? 

 違うって、とぼくは苦笑した。彼女はぼくの手首に巻かれたミサンガを指して「不好プーハオ」と顔をしかめ、かっこわるいと記した。そして手を横に振ってまた顔をしかめる。麗江でルオさんが「よくないですねー」と日本語で言っていた様子とそっくりで可笑しかった。こんなもの取って投げ捨ててしまいなさいという身ぶりをするので、ぼくは笑って首を横に振り、《越南、女性、贈品》と書いて矢印でつないだ。もらったんだという身ぶりを理解できない様子なので、辞書で調べて贈り物という意味の《礼品》と書くと彼女は納得のいった顔でペンを持った。

 ――あなたは子供がいるの? 
没有没有メイヨーメイヨー」とぼくは言った。
 ――あなたの恋人が贈ったの?

 いやいや、とぼくが×印を書き入れると、恋人はいないのねと彼女。そんなやりとりをしながら、彼女には以前は恋人がいたが別れたらしいとわかった。恋人はいらないという。ぼくが外を指しながら仕事はいいのかと問うと、いいと彼女は答えた。日記を書くからそろそろ出て行ってくれと示すと、彼女は首を振り、書けという。キミが見ていると書けないとぼくが言うと、彼女は両手を目にあて、見ないからという仕草。ハイハイとぼくが前を向き、また振り返ると、指のあいだをあけていた彼女が目を合わせ、弾けるように笑うのだった。誰かの声がすると、彼女はぼくが開け放っておいたドアを閉め、「シーッ」と口に指をあてた。しかしドアがノックされると、仕方ないという顔でドアを少し開いて誰かと話し、ようやく出ていった。バイバーイと声をかけると、彼女は投げキッスを返した。のんびりしたものだ。昨日このホテルを訪ねたときも食事中とかでフロントは誰もおらず、半時間ほどして係の女の子が悠然と帰ってきた。けれどもふしぎと不快さはなかった。

 やっとひとりになったと思いきや、ノックに出るとまたもや彼女だ。昼食に誘うので腹がへってないと断ると、彼女はうなずきながら入ってきてテレビのスイッチを入れた。電源が入らないのは、差込口の一つしかないコンセントをぼくが卓上灯に使っているからだ。仕方なくプラグを差し替えると、彼女はベッドにうつぶせになり、すっかりくつろいでアメリカ製の動物アニメを眺めている。その無邪気で無防備な態度に、客に気を許しすぎていつか嫌な目に遭わなければいいのだけれどと思う。そのうち彼女はチャンネルを変えながら怪訝な表情を浮かべ、画像や周波数のつまみをいじりはじめた。けれど調整に失敗すると電源を切り、首を振って立ち上がると外に出ていった。おいおい、おれは見れんでええっちゅうの? ところがほっとする間もなくまた彼女がドアをあけ、食べに行こうというので言葉を失った。彼女はつかつかと入ってくると、ノートに字を書いた。

 ――私が食べてあなたは食べなくてもいいからついてきて
 先に行って待っていろというので階段を降りると、玄関脇の警備員室に昨日のザ・ガードマン君が座っていた。昨日バスを降りてこのホテルを訪れたとき、彼と筆談しながら不在のフロントを待った。近所に安くて旨い飯屋はないかと問うと、店名はすぐさま出てきたものの場所となると彼は考え込み、長いやりとりの末、結局「おれが案内できる」という言葉で話は終わっていた。今朝になって食事に出ると、彼推薦の店はすぐ斜向かいにあった。そのザ・ガードマン君はぼくを部屋に招き入れて何やら書きだした。おぼろげに意味がわかり、呆れた。昨日からどこか怪しげやったけど、嫁さんがいるのとちゃうんかいな……。そこにやってきた彼女がそのメモをぼくから取って読み上げ、「不好不好」と彼を指し、コイツにかかわっちゃだめという表情をした。「おまえは黙っとらんかいな」というようなことをたぶん言ったのだろう彼は、メモを取り返そうとやっきになっている。端からはじゃれあっている風にしか見えず、根っから悪い奴でもなさそうだ。あとで彼の文面の不明な字を辞書で調べると、大筋は予想通りだった。

 ――今日アメリカ人の女が来たから、おれたちふたりで組んで彼女らと遊びに行かないか? 

 夕食後、商店が店じまいし食べ物の屋台も店をたたみはじめた町を歩いた。広場の暗がりにできた人だかりは、輪投げならぬ輪転がしの夜店だった。地面に引かれた線の手前から自転車のタイヤを転がし、離れた地面に置かれた景品にかぶさればそれをもらえるゲームだ。しかし転がしたタイヤが倒れるまで一回ごとに時間がかかり、思いどおりの場所に倒すのは相当難しそうだった。何人かの転がしたタイヤが弧を描いてまるで違う場所に行くのを見届けてからそこを離れた。さっき入ったカフェの情報ノートに走り書きされていた、男性によるものらしい詩が思い出された。

 過去の/流転する存在の重さを
 昂められることを願い/おそらく辛く心苦しい眠りから
 目覚める者らの 初々しい/戸惑いを祝福するかのようにして、

 読点で終わっていたそれは、旅するものたちの存在を想起させた。または人の生そのものといってもいいかもしれない。くるくると輪を描き、同じ場所を巡り、流転する。自転車のタイヤのように。暗がりでぼくはその軌跡を追う。タイヤが地面に倒れ、その輪のなかから中年の男の姿が薄く立ちあがる。その視線の先には、旅する者たちの姿がある。彼もまた旅に出て、そこで若き旅人の蒼い心象をどこかに重ねている。現在の自己の内面、もしくは遠き日の自己の姿に。その思いは輪となって、ぼくのなかをくるくるとまわる。