彼らとぼくの存在のあいだ

 席を探すときは少し心が震える。異国でふたたび知らない町に向かって移動を開始するとき、冬の外気に触れるような緊張がある。席が確保できるか、どんな席か、まわりの乗客はどうか、体調を崩さないか、これからの長時間を何事もなく乗りきれるか。自己防衛と開放の必要性が、感受性をより鋭敏にしてくれる。今回は固定席のはずだった。しかし、そこにはすでに別の男が座っていた。

「ここ、ぼくの席なんやけど」
 チケットを示すと、彼は近くの座席に移った。尖った雰囲気の、チンピラふうの男だ。そばにもうひとり、同じような風貌の中年男が座っている。ぼくの席にいた男はまた立ち上がり、今度はぼくの前席に腰かけると、背もたれを大きく倒したり唾を通路に吐いては、あきらかにぼくを牽制しはじめた。男は脚を前の背もたれに投げ出し、ふんぞりかえった。ぼくはあほかとつぶやきながら、険しくなった表情を自覚した。最初は無視していたものの、男が指に持った煙草を消さずにぼくの足元に放ったときに腹を決めた。

「おいおっさん」とぼくは言った。「ちゃんと消せや」
 振り向いた男を見据えて、煙の出ている吸殻を指した。
「消せって言うてんねん。迷惑や」

 ぼくが足で煙草をもみ消すと、男はぼくの顔をちらりと見て前を向いた。

 数駅で席が埋まりはじめた。本来の乗客が来るたび、男たちは席を移った。そのうち、通路を挟んで斜め前の日本人の学生っぽい男に標的を移し、ちょっかいを出しはじめた。見たところ二十歳前後でいかにもおとなしそうな雰囲気だ。チンピラは通路を挟んで隣に座り、わざとらしく足を彼のほうに投げ出し、煙草の煙を彼に向かって吐いた。彼が目をあわさずに前を向いて黙っていると、チンピラは図に乗り、顔を覗き込んで至近距離から煙草の煙を吹きかけた。

「おっさん、ええかげんにやめとけや」ぼくは見かねて強い口調で言った。「どっか行けよ」
 しかし男はさらにペットボトルの水を口にふくみ、彼の足元に金魚を吐き出すように口をとがらせてぴゅっと吹き出した。
「ふざけんなよ!」ぼくは啖呵を切った。「やめろって言ってんのじゃボケ!!」
 男が目を合わせると、さらに怒鳴った。
「どっか行けって言ってるやろが!」

 間を置いてぼくは大声を発した。あいうえおでも何でも意思さえ伝わればよく、もちろんやりあうつもりもない。その男はおとなしくなり、男たちはぼくの方をちらちら見ながらなおも挙動不審だったが、公安らしき男が検札にくると逃げるように別の車両に移っていった。
 同じ列車に偶然乗り合わせたナナさんが様子を見にやってきた。彼は寝台だ。

「まさやん、どう、快適にやってる?」
「うん、今のところ」とぼくは言った。「やっぱりシートはゴザやけど」

 待合所で知り合った男の様子をいっしょに見に行った。ハードシートの車両は光源が少なくて薄暗く、木製のボックスシートで客たちは荷物のように押し黙っていた。話しかけることもためらわれるほどの沈んだ空気のなかで、各人がさまざまな物を抱え、網棚も大きな行李のような荷物でいっぱいだ。こんなところで一晩すごすなんて真似できないなとぼくは思った。

 深夜に夢から覚めると、列車はどこかの駅に停車中だった。オレンジ灯に照らされたホームにはざらついた光が沈殿している。駅全体が濃い闇に包まれ、空間の厚みが感じられた。その凝縮された空気には、手をのばせば本質に触れられそうな気配があった。
 朝、外が明るくなり人々が動きまわりはじめると、ぼくも便所に行ってペットボトルの水で顔を洗い、歯を磨いた。車窓にはこれまでとは少し違う高地の風景が広がっている。

 ラオカイ駅を出て、セールストークのうまい客引きにうながされてマツダのバンに乗り込んだ。細い山道を上るともやがあたりを覆いはじめた。窓からのひんやりとした空気が肌を刺す。緑の色が美しかった。いつしかぼくはまどろみ、二カ所ほど橋の壊れた場所で小川を直接渡る振動に目をさますと、濃い靄でほとんど視界がきかない世界は白い夢のつづきのようだった。

 二、三階建ての建物の並ぶ通りに車が停まると、ホテルの客引きが声をあげて殺到した。ぼくはすぐ横のホテルのツインをヒロ君とシェアすることにした。彼は昨晩薄暗いハードシートに乗っていた二十八歳の日本人だ。案内された部屋で荷物をおろして着がえると、「こざっぱりしてるねぇ」と彼がぼくを評した。これまで何人にそう言われたことやら。ことさら心がけているわけでもなく、三枚から四枚にふえたTシャツを着まわし、シャワーを浴びながらシャンプーで体といっしょに洗うような服装だった。さわやかだなどと言われるたび居心地が悪く、そうして固定されるイメージをはぎとりたくなる。別のものを身につけたいという思いが強まり、外面に意識が向かいつつあった。しかし、それはまた相手にとっても合わせ鏡のようなものだったのかもしれない。昼寝から目覚めると、先日のナナさんと同じようにヒロ君の顔のひげも剃られていた。似合ってていい味出してると思ってたのにと言うと、「上だけ残そうとしたんだけどね。失敗したから全部剃ったんだ」と彼は言った。

 ナナさんたちがやって来た。ナナさんはホーチミンまで同行したフキちゃんと別れ、メグちゃんと旅をしている。ホテル周辺を歩いてきたというふたりをもう一度と誘い、四人で外に出た。ぼく好みの勾配の階段をのぼりはじめるとしだいにスピードが出て、ぼくは駆け上がるように歩調を速めた。

 中腹で立ち止まって振り返り、息をのんだ。予期せずして、眼下の山々は雄麗だった。空から斜めに射し込む金色の光を浴びながら、トンボの大群が舞い翔んでいる。視界のなかの光と色そのものに直に触れているような感覚をおぼえた。

 丘をのぼっていると幼い女の子とその弟らしき男の子がついてきて、ナナさんが女の子を肩車し、それ見てぐずつきだした洟垂れ小僧をぼくが肩にのせた。丘の上には舗装された有料のハイキングコースがあった。けれどぼくたち以外に人影はなく、閑散としている。あちこちに大麻がはえてるよとヒロ君に教えられた。ただこうやって自生しているものはたいして効かないらしい。

 歩き疲れ、路傍に座って休憩しているときのことだ。深い静謐のなかで、何かが前触れもなくやって来て、内側からひろがるようにぼくを包みこんだ。相対も、距離も、時間もなく、ただ充たされている。それがそっと去っていってから思った。ぼくたちは、なぜこんな空間を自ら破壊し、失ってしまったのだろう? 

 夜中の一時になりかけていた。昼寝しすぎたせいか、珍しくなかなか寝つけずにいた。

 やっとうとうとしかけたとき、閉じかけた意識のなかに外から奇声が射し込んだ。道路。けたたましい笑い声。同時に、部屋を走るネズミの足音。ドアの隙間から出ていくネズミを見たとヒロ君が昼間言っていたが、夜になって走りまわっているのだろう。はじめは足元のバックパックのあたりでごそごそしていたのが、コンクリートの上を走る足音になり、ほどなく頭上からに変わった。くっきりと耳元に聞こえ、頭部近くのベッドの木枠にでもいるのだろうと想像しているうちに意識が冴えてしまった。起き上がって電灯をつけたがおらず、トイレに行ってから探してもすでにどこにも姿はなかった。外ではあいかわらず何者かが言葉を交わしている。ときどき喚声があがり、派手な金属音が静寂に爪を立てる。酒に酔っているのだろうか。姿を見たわけではないけれど、山間の村から出てきてこの町に滞在している少数民族に違いない。

 暗闇に時計の文字盤が浮かび上がる。一時三五分。路上で夜を明かすつもりなのだろうか。テラスへ通じるドアの窓から外を覗き見ると、向かいのホテルの軒下に人影が一つ、男だろうが服装や顔つきまでは見えない。話し声からすると三人はいるだろう。町に出てきた少数民族はどこかのゲストハウスに集団で泊まっていると耳にしたけれど、外の彼らはその金さえないのだろうか。酒盛りや享楽目的でないことは紛れもない。女性の咳が聞こえてくる。境遇の違いは明白だった。ホテルの部屋のベッドにいるぼく。寒い町の夜を路上ですごす彼ら。昨晩のことを思い起こした。レストランの中まで入ってきて商品を勧める少数民族の女性相手に、ぼくはたった百円の民族帽をただ相手の言い値で買うのが嫌なばかりに八〇円にまけさせたのだ。ベトナムではこれまで、最初の値付けを飲むことはぼったくられるのと同義だったから。

 一時五五分。外の話し声は聞こえなくなった。しかし彼らはまだそこにいる。ときおりくしゃみや咳が道に響く。彼らの存在をはっきりと感じる。そしてここにいるぼく。彼らとぼくの存在のあいだには、いったい何があるのだろう? 人としての違いはない。けれど今、彼らは闇夜の下の冷えきった空気にさらされ、ぼくは暖かいふとんにくるまれている。これは何なのだろう? そんな思いの断片が、どこにもたどりつくことなく頭のなかを行き交っている。