はじまりと終わり

「出世するつもりはないよ」とコウノ君は言った。「できたとしてもしれてるしね。上は別のところから来る天下りだから」
「みんな?」
「上の方は皆そうだね」

 その朝、薄暗い小さな食堂でぼくたちは米綫をすすっていた。彼と知り合ったのは三か月前のカンボジアだ。それが五日前、大理でばったり再会し、昨日、別の町から麗江に戻ってきた彼とまた思いがけず同宿のドミで出くわしたのだった。今は短い休暇中という彼の顔はぐっとひきしまっていた。カンボジアから帰国後、彼はある法人に職を得ていた。この二か月でだいたいの内情は把握できたが、組織の特性上、政治的な圧力も頻繁で、みな適当に受け流しつつ仕事をこなしているという。まさにという言葉がぴったりの空気に情熱は誰からも感じられず、呆れるような言動の沼の主みたいなのがうじゃうじゃいると彼は話した。自分の仕事はしがない事務処理だと彼は苦笑いしたが、しばらく本腰を入れて働くつもりではあるらしかった。ただし一生はできないと彼はつけくわえた。

 こうやって彼のことを訊ねることでぼくはまた理想を築こうとしているのかもしれなかった。理想を思い描けば、それ自体が葛藤になる。なぜなら理想と現実とのギャップそのものが葛藤だから。

 宿に戻るとリオ氏が来て、ここが気に入ったので一泊のばしたと言って早々に去っていったが、気の毒なことに雨が降りつづいていた。

 ひとりで宿を出て、石畳の小路を歩いた。雨に濡れた石段の坂を上り下りすると、靴底の削れたスニーカーがつるつるとすべった。細い路地の奥にふと目をやったとき、ぼくのなかに何かが生まれ、ふくらんでいくのがわかった。それは、ずっと以前同じように京都の路地を歩きまわっていたときの思いの断片に似ていた。けれど当時と今のぼくとでは少し違っている。あのときはここではないどこかを求め、路地の奥に濃い郷愁を投影させた未来をつかもうとしていた。けれど、今は歩きながらそれだけで充たされていた。追い求めるものがなくても、過不足はなく、ここで現在が完結している。石畳が途切れ、雨水でぬかるんだ泥道になった。先日訪れたのどかな集落に行くつもりが、途中で道を間違えたらしい。曇天の下、またポツポツと雨が降りはじめていた。大きな水田にあたって進めなくなり、迂回しながら農道らしき道を進んだ。雑草におおわれた道も楽しかった。そして自然の力を感じずにはおれない。人が通るたびに踏み折られ、それでもなおたくましく繁茂する草花と、その中で保たれている調和には、存在のつながりが実感された。けれど、言葉は物事を分断する。空、大地、草、水……。どこまでつながっていて、どこからつながっていないかの定義は難しい。しかし言葉は分類と分離の観念を安易に植えつける。名称によって、観念のなかで存在が切り分けられてしまう。

 宿に戻ってシャワーを浴び、ドミのふとんで読書中のコウノ君に声をかけた。彼は日本の大学院を卒業後、渡英して別の学部で修士を得たという。そのときに学校で出会った前の彼女は、日本に帰国後ロンドンで職が決まったと告げて行ってしまった。彼は失業中だったので無理に引き止める気も起こらず、結局別れることになった。しかし半年くらい引きずっていたという。今はつきあっている女の子も意中の相手もいないらしかった。
「他の子と遊びに行ってみたりもしたけど。でもさ、たいていは、これでいいか、もしかしたらうまくいくかもって妥協してるんだよね……」
「最初にぱっと見てだいたいわかるもんなあ」
「その段階で惹かれ合うものがないとつづかないよ」
「本命にはならへんかもね」
「そういう人間はピピンと来る」
「その彼女も?」
 彼はうなずいた。

 そういうはじまりであっても終わりは訪れる。はじまりにはそれが大切かもしれないけれど、終わらないために何が必要なのかぼくたちはわかっていない。そして例外なく、あらゆるものごとには終わりが訪れる。それを知りながら、出会いやはじまりに特別の価値を見出そうとしている。終わりを前提として、空気のようにもろいものに触れることがない。