到着 バンコク

ややこしいことになった。はじめての地に着いたばかりというのに、隣でよく知らない女が吐いている。運転手の不安げな問いに反射的に大丈夫と答えながら、何がと思った。車内には嘔吐臭が立ちこめ、カチカチというウィンカーの点滅音が耳についた。

当初の心づもりでは、ひとりでバスに乗っているはずだったのだ。タイに到着し、ドンムアン空港を出る二時間ほど前までは……。

空港口を出てむっとする空気に包まれながら、ひとりだ、とぼくは胸の裡でつぶやいた。心細くはあった。けれどせっかく異国に来たのだ。ひとりで行動して、すべての感覚を鋭敏に研ぎ澄ませていこう。しかしどう別れようか――。

ぼくは隣の女の子をちらりと見やった。彼女は、韓国からの乗り継ぎ便で隣り合わせた日本人だった。ぼくが窓の外を見ていると話しかけてきたのだ。よく旅行に行くのかと訊くので、今回が初の海外旅行みたいなものだと答えると、そんなふうには見えないと彼女は言った。
「何度も行ってる人なのかなあって。態度が堂々としてたから」
「いや、とんでもない」ぼくは苦笑して否定した。
緊張で硬くなってるだけだ。社員旅行で五、六年前に香港に行ったのがぼくの一度きりの海外旅行体験だった。今回の日数を訊かれ、たぶん半年くらいと答えると、「はじめてのひとり旅で?」と彼女はまた驚いた顔をした。どこへ行く予定なのかと問われ、まだ決めていないとぼくは答えた。
「まったく?」
「ええ、まあ……バンコクで決めようかなと思って」

とりたてて訪れたい国もなく、タイを選んだのも適当だった。他国への航空チケットが安いらしいと聞き、行く国をここで決めるために。結局、どこでもよかった。

彼女は数種類のガイドブックのコピーなどを整理しはじめた。タイからインドに入り、できればパキスタンへと西へ向かいたいのだという。準備時間がなかったと言いつつも、宿やルートの情報を集めて検討している様子で、旅慣れた人はこういうことをするものなのかと感心させられた。彼女は前回の旅で知り合った友人から手に入れたという情報ノートのコピーまで持参していた。ノートの作成者はよほどのツワモノらしく、中近東周辺諸国のビザの取り方や国境の越え方が詳細にまとめられている。そんな資料とともに彼女のプランを聞いていると、ろくな準備も知識もない自分がやっていけるのだろうかと不安が湧き起こった。

未開の地に行くわけでなし、どうにでもなるだろうと高をくくっていたものの、ぼくははや日本の空港から緊張し、はじめてひとりで電車に乗る小学生みたいだった。とりあえず安全でありさえすれば――それが当面の問題だ。用心のつもりで、あとから考えると笑えるほど大げさにT/Cトラベラーズチェックと現金をいくつもの財布やバックパックのポケットに分散させていた。そのせいでどこに何を入れたかわからなくなって空港の両替所でうろたえ、チェーンでつないだ財布を体の横でぶらぶらさせた。その姿はやはり無様だった。

それでも、ひとりであることはぼくにとって重要なことだ。そう思いながら、別れるタイミングを逃した。飛行機をおりてなんとなく入国審査、ターンテーブル、税関といっしょに進み、両替後、ともにターミナルビルを出た。近寄ってきたタクシーの客引きたちが「向こう」と差した先にバス停は見えなかった。日陰を出ると強い光線が照りつけ、濃い湿気を孕んだ空気の感触が南国を実感させた。停留所は少しわかりにくい場所にあり、結局、彼女――ハヤシさん――とカオサン通りの安宿街まで行って、そこで別れようとぼくは思いなおした。

目あてのバスはなかなかやってこず、そばにいたタイ人の女の子にハヤシさんが訊ねると、同じ番号でも車体の色で行き先が違うらしい。そのまま彼女たちは話をはじめたが、ぼくは警戒して距離を置いた。そもそも英語を話そうにも会話のテンポについていけない。遠くから近づいてくる車体の番号に目をこらしていると、今はオフシーズンだからカオサン方面へ直通の本数は少ないのだ、とその女の子が言った。しばらくして、「いっしょに行きましょうって」とハヤシさんが口にした。その女の子は入院中の家族を見舞いに行くところで、同じ方向なので途中まで送ると申し出てくれたらしい。「センター」までまず行って、そこで乗り換えれば本数も多いし早いという。どうするかと問うハヤシさんに、やめておいたほうがいいんじゃないかとぼくは素っ気なく返した。センターという場所も、彼女を信用できるのかもわからない。はじめての国に着いたばかりで他人にほいほいついていって大丈夫なのか。それはハヤシさんも同じらしく、ぼくたちは返事を濁したまま、つぎつぎとやってきては去っていくバスを目で追った。

女の子は中華航空勤務らしく、片言の日本語を知っていた。日本に友達がおり、大阪や北海道に行ったことがある、日本は大好きな国なんですと彼女は言った。そこに彼女と知り合いらしい青年がやってきて、彼女の言葉に穏やかにうなずいた。彼女は、やはり彼も同意見だという。彼も仕事を終え帰宅するところで、彼女と同方向らしい。彼の都会的な雰囲気のなかで、足元のぞうりだけが日本の通勤イメージとはそぐわない。仕事を訊ねると、彼は二十三歳で空港で勤めているんです、と彼女がかわりに答えた。はじめは、彼女のはにかんだ態度が胡散臭さの表れのような気もしたが、そうではなさそうだった。彼女の誘いに、彼もこっちを見て首を縦に振った。彼女の素直そうな目を見ながら、今度は疑いではなく迷惑をかけてしまうんじゃないかと逡巡するうちにバスがやってきて、結局ぼくたちはあわてて乗り込んだのだった。

車内は涼しく快適だった。エアコンの有無で運賃が違うらしく、質素な方を選択するつもりだった。けれど結果として冷房車のなかで足元のバックパックが邪魔にならないかなどと気をつかっている。すべてがなし崩しだった。

乗務員が小銭と受領証の入った筒をカシャカシャとならして運賃徴収にやってくると、彼らはぼくたちの分まで払ってくれ、返そうとしても受け取らなかった。バスは日本と同じ左車線を走り、道路脇には大型広告がならび、日本企業のものもある。ぼくは、その文字が日本語でないという以外は日本とたいして違わないことに安堵していた。そんなことは知っていたはずだ。けれど、知識の断片は記憶の底に沈殿したまま、生きた像を結ばなかった。

席があくと、彼らはぼくたちに座るよう促した。ハヤシさんはすぐに目を閉じて頭を揺らしはじめた。彼女は機内で、旅行前は多忙であまり寝ていないと言っていたのだ。ぼくも寝入りそうになっては、はっとして窓の外を見た。仕事が終わったのか、建物からたくさんの人が出てくる。やがて女の子とともにぼくたちは立ち上がった。彼はまだ先らしく、礼を言うとやわらかな笑顔を返した。

降り立った歩道には大勢の人が往き交い、たたずんでいた。気分が悪いので休みたいとハヤシさんが言い出し、植え込みにぼくたちは腰かけた。ぼくは辞したが、タイ人の女の子はハヤシさんに透明な袋に入ったオレンジ色のジュースを買ってきてくれた。暮色が空を覆っていた。ぼくが病院の時間を案ずると彼女は大丈夫とはにかみながら答え、明日は何をする予定なのかと訊いた。
「予定はないんですよ」
「あさっては?」
「あさっても」とぼくは笑って答えた。「ここにいるあいだずっと」

彼女の態度に、いっしょにどこかに行かないかとでも誘いたげな雰囲気が感じられた。あるいはどこかを案内するとか、食事するとか。けれど自分からは言い出せずにいるのがわかった。ぼくは、奥ゆかしさとは少し違うけれどそれと似たようなものをひさしぶりに女性から感じたような気がした。でも、何も言わずにいた。

隣で目を閉じていたハヤシさんがタクシーに乗ろうと言い出したとき、ぼくは、金で問題を解決するという方法に安易に頼らないでおこうという考えもまた崩れてしまうことを思った。タクシーに乗り込み、礼を述べて別れを告げた。車が走り出すと、青ざめた顔の彼女は吐きそうだと言って息苦しそうに目を閉じてうつむいた。停めてもらおうかと訊くと彼女は首を横に振ったが、ぼくがさしだしたビニール袋のなかにすぐさま戻しはじめた。異変に気づいた運転手が驚いて振り返り、車を道路脇に寄せて停めた。運転手は最初こそ狼狽の色を見せたものの、彼女の足元に視線を走らせ、マットが汚れていないことに安堵したようだ。

彼女は間をおいて二、三度嘔吐した。鼻もとに漂う臭気に嘔気が伝染しかけたが、気を取り直して、ためらいつつ彼女の背中をさすった。最初、触れた手に彼女が小柄な体を硬くしたのがわかった。汗ばんだTシャツごしに彼女の背中の熱が伝わってきて、下着の紐が手にひっかかった。邪心はなかったし誤解を招くようなこともしたくなかったけれど、何もしないより楽になるだろう。外で休もうかといったん車を降りかけたものの、彼女は大丈夫だと主張した。このままゲストハウスに行ってベッドで休んだ方がいいからと言いながら、彼女はまた短くえずいた。もう固形物はないようだった。苦しそうに袋に顔を埋める様子を見兼ねてふたたび背中に手をやると、彼女が心なしか体を遠ざけた気がして、ぼくは手を離し、彼女と車の進路を交互に見守った。整備された大通りに、南国らしい椰子の木が等間隔で並んでいる。運転手が彼女側の窓をあけると、クーラーの効いた車内にねっとりとした空気が這い込んできた。

それにしても、どういうことになっているんだろう。旅行者狙いの現地人を警戒してはいたけれど、しょっぱなから日本人を介抱することになるなんて。吐き終えた彼女は、袋の口を握って下を向いていた。体調不良だけではなく男たちから護身しなければならない、女ゆえの旅の難しさを思った。彼女は既婚だった。家でカメラ店を営んでいるというダンナさんがよく二ヶ月ものひとり旅を許してくれたものだ。

運転手が車を停めて後ろを向いた。迷惑料のつもりで釣りを断って外に出ると、彼は後部座席の足元をちらりと見やって車を発進させた。空港を出たときはまだ強い光のなかにいたはずなのに、時間が飛んでしまったかのようにあたりはすっかり暗くなり、きらきらした派手な明かりが路面を照らしていた。歩き出そうとして賑やかな通りの向こうを見つめた瞬間、フラッシュをたいたように記憶が白く飛び、自分がどこにいるのか思い出せなかった。