車窓には美しい自然がひろがり、鮮やかな衣裳の人々でごった返す市場があった。広い
山から平野に下りると車内がざわつきだし、窓の外にぽつぽつと民家が見えはじめた。家々のあいだの細い灌漑用水路はコンクリで固められておらず、雑草が溝の脇に繁り、流れる水が陽光に輝いていた。
「うつくしい! すばらしい!」
旧市街で、彼はサッカー解説者がコンビネーションゴールを褒め称えるように感嘆した。彼のガイドブックには旧市街のホテルはないらしかった。ぼくが入った宿の西洋的ではない造りがリオ氏の気に入った様子で、彼の希望するシングルは埋まっていたがダブルは六〇元だという。部屋を見て彼は「よーし」と満足げにうなずき、「ここにする」と告げた。ところが、ダブルルームにひとりの場合は百十元だとフロント係が訂正すると、リオ氏の顔色が変わった。さっきは六〇元と言ったじゃないかと彼が問うと、フロント係はすぐ謝罪した。しかしリオ氏は怒り出し、押し問答のようなやりとりになった。
「おまえはさっき六〇元って言っただろ、なのに言葉を覆すのか」
フロント係は英語で応対していたが発音が聞き取りにくく、何を言っているのか不明なことも度々だ。そのたびにリオ氏は聞き返したが、結局内容は変わらないようだった。リオ氏はぼくに「このくそ野郎は嘘つきだ!」と大声で言い放ち、それでいて、何とかならないかとまた頼み込んだ。
「おれは重い荷物を背負ってここまでやってきた。そして部屋を見て気に入ったからここにすると言ったとたんに値段が変わった。そんなおかしなことはない。そうだろ?」
整髪料できっちりと髪をなでつけたフロント係は黙って聞いている。黒のセットアップスーツをきちんと着ているのも珍しく、中国の客商売人によく見られるぞんざいな態度もなかった。
「君の力でなんとかディスカウントしてくれないか?」
「すいません。できないんです」
「もういい!」とリオ氏はカウンターから離れ、近くの丸いソファに座った。「くそっ!」
悪態を吐くリオ氏の隣にぼくは腰をおろした。
「気持ちはわかりますけど、彼も最初から騙そうと嘘を言ったんではないと思いますよ」
「いや、最初おれは、ひとりはドミで、ひとりはダブルルームって言った。そのときあの男は六〇って言ったんだ」
レストランを兼ねた広いエントランスには、中国の伝統音楽を現代風にアレンジした曲が流れている。リオ氏はポケットに手を入れてむっつりしていたが、また立ち上がってカウンターに近寄り、トーンを落として言い含めるように話しかけた。
「おれの祖父は中国大使館に勤めていたんだ。おれも中国は大好きだ。ブラジルと中国の友好のためにも、何とかならんだろうか?」
「いえ」とフロント係は首を振った。「申し訳ありません」
「くそったれ!」とリオ氏は顔を紅潮させて振り返った。「ブラジル大使館に連絡して、こんなホテルぶっつぶしてやる!」
ロンリープラネットに投書してやるぞと吐き捨て、彼は荷物を手に足早に外に出ていった。ぼくは急いで追いかけ、ちょっと待っててと声をかけてフロントに戻った。そしてリオ氏の態度を謝り、たしかに間違ったのはあなただし何とかならないかともう一度訊いてみたが、やはり駄目だった。ぼくはここに泊まるからと荷物を頼み、外に出た。
「他のホテルを探しましょう」
「あいつは腐った野郎だ!」
次の宿は満室で、その次はいかにも中国人専用のような場所だった。おそらく断られるだろうと入ると、管理人室で中年の夫婦が子供とごはんをかきこんでいた。彼らは中国語しか話せなかったが、外国人の宿泊も問題ないらしい。部屋のなかはそれほど明るくなかったが中庭が開放的で、値段も三〇元、汚いだろうと予想したシャワールームも清潔だ。
「ここにする!」とリオ氏は立ち所に表情を弛ませた。
リオ氏と昼飯の店を探しながら、ぼくの宿を通りすぎると彼は批判を再開した。値段は問題ではなくフロント係の態度に怒ってるんだと彼が言い重ねるたび、同じく安宿を旅する者として、やはり値段だって問題だったんだろうなとぼくは思った。
「言い違えは誰にだってありますよ。英語だったし」
「奴は毎日その仕事をしてるんだ。間違えるはずがない」
気持ちはわからないでもないけれど、他人へのその受容性のなさがふしぎだった。自分のほしいものが手に入ったときや都合のよいことには大げさなほどに喜び、逆の場合はとたんに感情的に相手をののしり、敵意を剥き出しにする。
レストランで、彼は肉をあまり食べないようにしているからとチーズときゅうりのサンドイッチを注文し、ぼくはカレーを選んだ。Tシャツに着替えた彼のシャツの袖口から入れ墨が見えていた。それは車中で見せられた写真にいっしょに写っていた日本人彫り師のものらしく、リオ氏は彼に一目置いている口振りだった。
リオ氏はしきりと
「若そうですね」
「おれの導師は若いが、何回も輪廻転生しているから中身は違うんだ」
導師から授かったマントラをいつも唱えているという言葉に、バスで後部座席から聞こえていたうなり声に合点がいった。ただ、彼が口にすると、輪廻転生や修行という言葉は僧侶のサングラスのように不似合いだった。聖的な、もしくは神秘的なものを求めているとしても、彼の態度とは相容れないように思える。西洋で一目置かれた東洋的スタイルをまとって粋がり、ただ酔っているだけのように見えた。
彼の仕事は本や雑誌のデザインという以外わからなかったが、話を早く切り上げたい素振りだったので店を出た。陽のあるうちに仕事の資料用の写真を撮りたいらしい。
青い空に薄い雲がたなびいていた。四方街と呼ばれる旧市街は石畳が敷かれ、木造建築の落ち着いた色合いと様式が風情を醸している。石畳の切れる町角でじゃがいもの丸揚げを初老の女性から買った。用水路の脇には草木が茂り、古い家並みとの調和が取れている。香辛料の利いたじゃがいもをパクツキながら、水路に沿って歩きつづけた。水面に木漏れ日が反射して涼やかにきらめいている。舗装工事中のがらんとした大通りにちょっとした食堂街らしきところがあり、晩飯をすませておくことにした。
店に入ると、幼児が物珍しげにやってきて愛らしい目でぼくの顔を覗き込んだ。その男の子はぼくのテーブルの向かいでぼくをじっと見つめ、ぼくもとりたてて相手をするでもなく、静かに視線を合わせた。ぼくが炒飯を食べはじめた頃には、男の子は低いテーブルに顔をのせ、指をくわえて眠ってしまった。見ているだけで暖かな気持ちが満ちるような、安らかな寝顔だった。店のおっさんが茶葉の入ったコップに湯をそそいでくれた。子供の歳を訊ねると、二歳だと言って相好を崩した。
食べ終えるとお腹一杯で苦しかった。時計を見るとまだ六時すぎだ。遅い昼食のあとでさっきじゃがいもを三つも食べ、腹が減ってもいないのになぜここに入ったのか思い返すと、ただ地元民向けの食堂で食べたかったからだと気づいて可笑しかった。客はぼくひとりだった。古テーブル四つだけの狭く殺風景な店だったがおっさんは愛想がよく、ぼくが立ち上がろうとすると、いいからまだ座っておけという仕草をした。地味な服装と無精ひげで一見老けてみえるけれど、まだだいぶ若い。目鼻立ちの整った奥さんが深紅のジャケットを着て入口に座っていた。
夕陽が表の並木の葉を照らしはじめた。陽がまた少し傾き、金色の光が入口に射し込むと、母親が胸に抱いた子供のやさしい寝顔に降り注いだ。母親が立ち上がり外を背に体を揺らすと、ふたりの輪郭は金色に縁取られ、母親の紅い上着の端が燃え上がるように輝いた。
ぼくはまた四方街に戻り、石畳の狭い路地を歩きまわった。視界のなかで情景が切り取られる。漆喰塀と、坂道と、曲がり角と、空。その古い街並みは、ぼくのなかで掘り返されることなく埋もれていた記憶を刺激し、いつしかぼくを別世界に誘っていた。歩きながら、ぼくはぼくのすべての過去を生きていた。湧き起こる思考と記憶――それらは、ぼくのなかに刻み込まれたまま、置き忘れられていたものたちだ。物置で埃をかぶった昔日のレコード盤のように。ここにあらわれる反応、思考、イメージ、その一切は過去であり、ぼくはいわば現在に過去のなかを生きている。そう気がついたとき、自分の失ってしまった思い出や感覚をもう一度ここに甦らせ、色鮮やかな現在としてこの手につかめそうな気がした。けれどもはっきりと甦るものはなく、何も取り戻せはしない。ぼくはあきらめ、空っぽになって、街を歩きつづけた。